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2013年インド帰郷12 今回の旅を振り返って  

   
2013年1月14日

ようやく日本に帰ってきた。ミッション完了(ふう~)。

インドは烈しかった――毎日がめまぐるしい。

今の心境をたとえると、味わう間もなくたらふくバイキング料理を食べさせられて、一体自分はナニ食ったのかこれから思い出そうとしているような感じ(?)。

上野にたどり着いたとき、冷涼たる日本の空気に触れて、ようやく正月を迎えたような気になりました。

「今年はがんばるぞ(やらねば)」という感じ(過去を見ない坊さんは「今年も」という言い方はしない(笑))。

ちなみに昨年の抱負は、「一年ライブ(仏教講座)を休まずに続けること」だけでした。

完遂。それだけでいろんな出来事に恵まれた。〇〇〇での事務所開きも、インド再訪も。二冊目の本も。

今年も同じ。目の前を見て、理解して、自分にできること、なすべきことをやる。

もし正しい行いをやっていれば、自然に因縁というのはつながってゆく。

自分としては、だから何も考えないで、行いに努めるだけでいい――。


今年は日本での活動3年目。よきつながり(ご縁)が増えてきた感じがします。

これからもっともっと確かな心通う関わりをつくっていきたいと願っています。



今回の旅でひとつ感じたこと――それは、仏教発祥の地インドで仏教を伝えられることの幸せ――です。

今回発見したのは、私が伝える“伝統フリーな仏教”がインドで受け入れられる可能性がかなり高そうだということ。

ナグプール、バンガロール、と大きな都市二つに活動拠点が簡単に見つかった。

私が今後インドに渡れば、現地の人々が会場&人集めのお膳立てをしてくれることに。

今後は、身ひとつでかの地に渡って、その場でブディズムを説き、仏教を奉じる現地の人々を励ますことが可能になったのです。

仏教を伝える者にとって、仏教誕生の地で仏教を分かち合えることほどありがたいことはない。僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸せ)にあふれた旅となりました。

さて、2月、3月と単発の講座をやって、4月から通年のシリーズ講座をはじめます。

もし仏教がいったん絶滅したインドにて、かの地の仏教徒たちが、日本で始まったこの場所での仏教を“ダンマ”として受け止め、心の拠りどころしてこれからの世の中を作っていってくれるとしたら――?

夢想は禁物だし、別に価値を確認する意図もないのだけれど、日本とインドで始まろうとしているこの道は、“新しい善き価値の創造”という、私が唯一こだわる価値を具体化してくれる可能性を秘めている様子。


ならばこのまま歩き続けるのみ。


本当の道は、たどりつく先を見なくても、今歩いているこの一歩一歩に充実を感じるものでしょう。

この一歩に気持ちを込めること。
それだけで、必ずどこかにたどり着けるであろうという予感(確信)がすること。


それが理想の道なのではないかな――。


今年一年は、仏教ライブを休まずに続ける(そして願わくば、年末にもう一度インドに渡る――いよいよインドでのダンマライブを本格スタート)、というのを方向性に、がんばります。


あなたにとってこの一年がよき年となりますように。
本年もどうぞよろしくお願いします。





村の大事な仲間たち

2013年インド帰郷11 村の一日


2013年1月4日 

早朝、村人の声で目が覚める。ようやく帰ってきた。久々に熟睡した。

ラケシュの家には、近所の婦人たちが水を汲みにやってくる(ポンプのない家庭も多いため)。

男たちは、歯を磨いたり(インドでは夕食後ではなく朝歯を磨く(笑))、新聞を読んだり。朝から人々が集まってにぎやかしい。

朝8時すぎ、学校の子供たちが集まってくる。(正月休みというのは基本的にない)

ラケシュの家から細い土の道をはさんだ向かいに幼稚園がある。ある子供たちは歩いて、ある子供たちはディパックの兄の車で、ある子供たちは親に連れられてやってくる。カバンを置いて、楽しそうに遊びはじめる。女先生がやってくると、元気よく「グッモーニング、ティーチャー!」

朝礼は外の小さな敷地でやる。前の子の肩に手を置いて「前にならえ」の整列。

一番うしろの子の肩に私が手を置いてみせると、子どもたちが笑う。

そのあと各教室へ。この学校は部屋が二つしかないので、ひとクラスはとなりの民家の部屋でやる。学校をはさんだ反対側のもうひとつの民家の屋上で朝礼を開くこともある。

この地の人たちは、あまり「自分のプライバシー」というものを気にしない。部屋が空いていれば子供たちの教室としてごく自然に提供する。もちろん無償、と語るのも野暮なくらい自然に。

夜は、一部の村の青年たちは学校の教室で寝る。ラケシュの家族は、それまで椅子かわりにしていた簡易ベッド(ベンチと呼ぶ)にそのままころんと横になってみなで寝る。男も女もないし、世代も関係ない。そして明るくなるとぽつぽつと起きだして(目覚まし時計がない)、いつの間にか、いつもの朝が始まっている。

みなよく喋るし、仲がよい。近所のみながひと家族の観がある。話のネタを見つけてはけらけらと笑いあっている。

ひとつ思うのは、彼らは、上手に生きるすべ・うまく関わることを自然に心得ているということだ。

朝礼の様子をみながら思ったこと――(子どもらが振り向いて私のほうをのぞいている(笑))。

この子たちは、今日この幸運を振り返ることがあるだろうか。この子たちは、とてつもなく精妙な幸運のなかにある。

十年前に、村の青年たちが小さな図書室を作った。それをさかのぼることさらに十年前、ワスという二十歳の青年がババサブ(アンベドカル博士)の著作『ブッダとそのダンマ』を読んでなにかを深く考え出し、まだ小学生だった弟のラケシュやその友ディパックを教育し始めた。

彼らが大きくなって意志を持ったとき、彼らは村に新しい何かを創り出そうと図書室を作った。

数年経って、ラケシュは、ブッダガヤへの道中で、道を探してインドに渡ってきた日本人(つまり私)と偶然出会った。

それから二年経って、彼らと僧となった日本人とは話し合って、仏教に基づく社会改善の活動をはじめようと、新しい組織をつくった。その第一弾として幼稚園をつくった。

それから3年半がたった今、今朝の朝礼には100人を越す子どもたちが並び、嬉々として先生にあいさつし、3歳の子供たちはよたよたとおぼつかない足取りで教室に入って、何も考えることなく先生の声に耳を傾けている。

そのやわらかな心は無垢のスポンジのようで、大人はけっして取り戻せない、“吸収”という名の才をあますところなく発揮しているように見える。この子たち以上の“可能性”は、大人は手に入れることはできないのかもしれない。

この子たちが受けている教育は、村の青年たちが考えるベストの教育である。3歳の子供たちが、月百ルピー(160円)という授業料で、これほど良質な教育を受けている。

子供たちは、村人たちの最良の善意によって今日一日を生きている。 「見えない翼」にささえられて、彼らは幸運の雲に乗っかっているように見えなくもない。

3年半前には“無”だったものである。今は100を越す可能性が生まれている。

始まったばかりの可能性。何一つ失われていない、ほぼ100%の可能性が、私の目の前に生きている。

“未来”はこうして作られていくのだろう。

未来の作り方を、人々はこの上なくよく知っている。ごく自然に分かっている。

よき未来の作り方を、日本に生きる私たちは知っているだろうか。未来への閉塞感は、未来のつくり方を忘れてしまった焦燥から来るのではないだろうか。

よき未来を作るには、ひとつは“無から始める”ことかもしれない。

未来を忘れた感のある人たちは、きっと出来合い(既成)の価値観やしきたりを前提にしすぎているのかもしれない。

無から始めることほど、心に素直に、よろこびを伴う、楽しい生き方はないのであろう。

私もこの流儀に従うことにしよう。


学校の記念祭

学校の記念祭 ラケシュたちが建てた図書館前で開催
学校の次は水の浄化プロジェクトを始めます

 

2013年インド帰郷10 信仰よりも必要なもの

                  
2013年1月1日

朝6時発。3時間のドライブで、バンガロール郊外にあるチベット難民キャンプへ。

ここは中国の侵略を受けたチベット難民が、インド政府から与えられた土地。

ネパールやインドには難民キャンプがたくさんある。このキャンプには2万5千人のチベット人と、7千人の僧が暮らしている(かなりの比率である)。

三十代半ばのチベット僧に案内してもらう。ネパール出身。この地に来て十七年目。

二〇年にわたる修行の途中なんだとか。修了するとゲシと呼ばれる(PhD博士号相当)の資格が与えられる。

寺院に参拝すると、大日如来や薬師如来といった日本でもおなじみの仏たちが祀られている。


輪廻転生を信じること、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想をやる点は、テーラワーダ仏教と通じる。

ただ、チベット仏教が崇拝する“16人の阿羅漢(アラハン=いろんな意味で使われるけど平たくいえば涅槃に達した聖者)”の中には在家もいる。

(テーラワーダでは、“アラハン=(イコール)比丘限定”という決まりがある。もし在家のままでアラハンに達したら、“一週間以内に得度しないと死ぬ”という丁寧な“脅し”が注釈にある。悟りをあくまで比丘に限定したいのだ。しかもスリランカでは”コナガマナ”と呼ばれるバラモン・カーストしか比丘になれない。)

ごく一部だが、性的儀式を密かに行うタントラヤーナ仏教というのも現存しているらしい。でもこれは、悟りへの修行をすべて終えてから取り組むべき最終最高の修行なんだそうだ(ムリありすぎる位置づけのような気がするが……)。

この難民キャンプのお坊さんたちは、最近まで畑仕事も自分たちでやって自給自足していたという。今はダライラマ法王の活躍もあって世界中から支援が集まる。だから農作業はやらなくなったとか。

彼は、ここ20年、朝夕の読経を欠かしたことはない。

経典は108ある(煩悩の数ではないらしい)。一人前の僧になるための試験では、その経典の一つ一つを正確に暗記してその意味を問われるそうだ。

その試験の厳しさは「実際に見たら驚きますよ」というくらい。

特別に、僧院でチベット仏教のお経を称えてもらった。低くおごそかに、つぶやくようにささやくように声がつづく。

ひとの声というのは、聞くだけで癒されるもの。だからこそ読経というのは、意味がわからなくてもどの地でも人気なのだろう。



文化大革命を指導した毛沢東の一家は仏教徒だったそうだ。その息子だけが仏教ほかの宗教を弾圧した(事実だとすると、人間は恐ろしいことを考えるものだ。自分ひとりの考えで何億もの人間の心をコントロールしよう・できると思ってしまうのだから)。

「ここまで弾圧されても武器はとらないの?」と聞いてみる。

「オフコース」と即答――。

彼の真摯な修行生活には感銘を受けた。けれども、ただ迷いなく闘いを否定するその姿には、一抹考えるところがあった。

たしかに仏教は殺生を禁じるし、慈しみに基づいて一切の闘いを放棄する。

もちろんそれは真理のひとつには相違いなかろうが、しかしそれは出家の倫理、宗教の領域内における真理である。

その真理を、この暴力に満ちた現実の世界にそのまま適用してしまっていいのかどうか。ひとつの真理はそのまま異なる領域にもダイレクトに通用するものなのか。通用させてしまうことが、“論理的”なのか――私はそういうところを考える。

少なくとも、闘いを否定すること・怒らないことを、現実のこの世界に適用しようとするときに、ワンクッションの思考――ためらい――があっていいような気がする。

出家が、つまりは世俗から離れた者が闘いを否定することは簡単だ。

しかし俗の現実を生きる人間が闘いを否定してしまったらどうなるか――簡単に虐殺が始まり、支配され、蹂躙されてしまう。

チベットの人々は、かつてイギリス軍の侵攻に対して、護魔符を身につけ、再生を信じて、石や刀という武器というにはあまりに無能すぎる道具をかまえて突進していって、砲弾の嵐を受けてあっけなく殺されてしまった。植民地時代に最後に残っていた帝国未踏の秘境は、簡単に支配されてしまった。

そして20世紀に入っては中国軍に侵略された。今に至ってもなお、チベットの人々は、抵抗のすべとして焼身自殺をして見せる。そのうち自殺して見せる僧さえいなくなるだろう。


その姿は――本当に、合理的なのか? 


輪廻信仰+(プラス)不殺生(非暴力)=(イコール)現実の前になすすべもなく打ちのめされる非力さ、という図式はないだろうか。これは表層的な見方だろうか。

少なくとも、信仰と、現実を生き延びるというテーマとの間には、もう一本線を引いたほうが正しくはないか――なんだかそんな感想が頭をよぎるのである。

輪廻というのは、厄介な信仰だ――というのが、私の正直な感想である。


ビルマでは、輪廻を信じるがゆえに、人々は貧しい中で寺院・僧たちに布施を積んだり仏塔を建てたりして、闘わずに、怒らずに、瞑想して心の浄化に努めるという風習を守っていた。

今ビルマで進んでいる民主化は、棚ぼたみたいなもので、仏教のおかげではない。ビルマ人が仏教を信仰していたから今の動きになった、という論理はまったく成り立たない。

仏教は、現実を変える点ではつねに無力だった気がしてならない。今考えるべき問題は、現実を変えるにかくも無力だった仏教が、本当に正しいのか、人々を幸せにするものなのか、ということではないのか。

以前ネパールを旅したとき、そして今回のチベット難民キャンプ訪問で感じたことだが、彼の地の人々の表情は、どこかしら無気力で、明るく前向きな顔を見かけない。

気のせいだろうか。ただ、かくも輪廻というのものをかたくなに信じ込んで、5人に1人はただマントラを唱えつづける僧たち(その比率は数ある仏教国の中でも抜群に高い)という社会において、人々は一体どのような希望を持ちうるというのだろう。

希望とは、何も望ましい未来や来世を思い描いて喜びを感じることだけではない。人生・職業を選べること、現実を改善する可能性があること、世の中のありかたを決定できること――

こうした今すぐにでも実現できるはずのことは、みな希望になりうるのである。

しかし彼の地の仏教は、これらの希望をはなから放棄し、そのかわりに輪廻に希望を託する。そうした信仰が根づいた世の中というのは、失望・無力そして閉塞につながりやすいのではないだろうか。


仏教徒にとって決定的に問題なのは、輪廻というのは、そもそもゴータマ・ブッダ(釈尊)が説いた思想とはまったく別物の可能性があるということだ。

しかしその可能性が問われることは、この地ではない。ビルマでもスリランカでも無いであろう。

はて、そのような現実が正しいものか。

仏教とは、ブッダすなわち“目覚めた人”の教えである。それが、本当に、輪廻といった人間の妄想に都合のいい(思いつきやすい)物語と合致するものなのか――。

輪廻というのは、じつに厄介な思想である。このような思想を前提にする限り、人々は現実を変えようとは心底からは発想しないだろう。苦しみは、この現実の一度きりの人生の中でこそ解決し、乗り越えるべきものなのだ、という集中はなかなか生まれてこないだろうと思う。

そのことによって、得する者とは誰なのか。比丘・長老たち? 武力にモノを言わせて支配・蹂躙し続ける強国の為政者たち?

インドで輪廻を説いたのはバラモンたちである。彼らは輪廻を自らの優越性を裏づける道具とし、人々に闘いをあきらめさせる信仰として利用した。

かくして三千年もの間、バラモンたちはインド社会を支配してきた。


あらゆる思想は、必ず、誰かの利益に働いている。その利益が、力なき者・貧しき者・救いを求めている者たちの側にあるのならばいい。だが、その利益が、逆サイドの人間たちにあるとしたら――そのような思想は、採るべきではない。

もとより、輪廻など、誰も現実に確かめえたことなど一度もないはずなのだ。

輪廻を真理として説く者たちよ――あなたたちは一体、いつ、どうやって、その存在を確かめたのか?

この欺瞞(ごまかし)は、ブッダの教えにまぎれこんで、今や仏教そのものとして信じられてしまっている現実がある。

ブッダという天才と、“ブッダの教え”として実に安易に妄想を語る後代の僧たちの凡庸さとの間には、計り知れない隔絶があるように思える。


そんなことをつらつらと思ったのはあとの話で、キャンプの中を回っている最中は、ガイド役のお坊さんの話をありがたく聞いた。お礼にお布施も差し上げた。

仏者同士、助け合わねばと思う。こういうときには、とにかく一生懸命聞くにかぎる。ひとつ新しい友情が生まれた。今度来たら、僧院に泊まってもらっていいと言う。


信仰というのは、尊いものだ。

だが非合理をも内在している。


私は信仰を否定することなく、その信仰の萌芽・礎(いしずえ)となるような、まがいなき本質部分の伝達につとめることにしよう。それがこの命の役割なのであろう。

現実をみよう。そして愛(慈悲)をもって考え続けよう。

俗世から離れた人生への憧憬は今もある
だが世俗の人々と同じように傷つきうる場所にいなければ
フェアとは言えないだろう?

2013年インド帰郷9 気づけば正月

2556/2013年1月1日

あけましておめでとうございます――と折り目正しくあいさつできるように、大晦日はどこか情緒あるシチュエーションで迎えたいと思っていたのだが、現実はそうでもなく、

今はバンガロールという南インドの都市にいる。外で爆発音が聞こえる。花火や爆竹というより“爆破!”っちう感じのどでかい音(笑))。

日本の「さあ、いよいよ新しい年を迎えるぞ~」という一斉感がちょっと恋しい(笑)。

私が知るインドは、新年を迎えるという儀式にあまり熱心でないみたい。毎回、いつの間にか年越しちゃってた……みたいな感じ(T T)。


今朝は、とある家庭に招かれて食事をし、そのあと列車に乗って地方の町(ラマナガラという)を訪れ、そこでいく人かの社会活動家と会合。都市にはない根強いカースト差別の弊害をたくさん聞いた。

多くの人が「インドではブディズムが失われてしまった」と嘆く。

仏教にかぎらずひとつの宗教が異民族の多い地で失われるとどうなっちゃうかというと、他の宗教に簡単に乗っ取られてしまうのである。それは特定の集団・人々にとっては、差別・迫害・支配・絶滅の危険に直結する。

このあたりの事情は、国のなかに“異民族”がいない日本とは事情がちがう。この地では、一宗教の衰退は即、集団の存続・個人の生存の危険につながるのである。

宗教が、民族・文化の安全を守る防護壁だとすると、仏教ほど“もろい”防護壁はないかもしれない。

怒らないこと、戦わないこと、瞑想しよう、徳(カルマ)を積もう、この人生が苦しみに満ちていてもきっと来世がある――というような物語はたくさんある。しかも今日びこの地の坊さんたちは、人々が語るには、「ナモータッサ」のお経を誦えるだけで人々と交わらず、教えを説かない。

かくして、今なお、仏教寺院が異教徒に乗っ取られ続けている現実があるらしい。取り返そうにもその力がない、と嘆くのである。ただでさえ仏教徒はマイノリティなのに、今なお足元を掘り崩され続けているのだ。かなり深刻な様子である。

今回意外だったのは、「ダンマ(ブッダの説いた真理)って何?」と不満げに語る人々がインドにこんなにもたくさんいたということ。

ダンマを知らなければ、まとまりようがないし、また教えを守ろうにも守れるはずがないだろう。


バンガロール有数の大寺院マハーボディ・ソサイエティで出会った篤実な在家信者もまた、同じような失望を語っていた。この寺院はバリバリのテーラワーダ仏教の寺なのだが、ひんぱんに開かれる法事で何をするかというと、お経を読んで、古い経典の話をして、僧たちに供養しておしまい。ある男性は、「あれはブディズムではない」とはっきり語っていた。

寺院に熱心に参拝している人から、こういう言葉を聞くとは思わなかった。みな、読経も仏典の話も、ただありがたく拝聴しているのだろうと想っていたから。

この地で見ているのは、私自身がかつて感じていた以上の、仏教への「?(クエスチョン)」なのである。「あれはブディズムではない」なんて、よほど求めているもののイメージがはっきりしていないと出てこない言葉だろうと思う。

だが人々が乗り越えることができないでいるのは、「ではブディズムとは一体何か?」という問いだ。

“ブディズムを生きている”はずの坊さんが答えを示せないのであれば、ブディズムを“学ぶ”側の人々に答えが見つかるはずもない。誰かが、明確な答えを示せないといけないはずなのだ。

「ブディズムとは何か」を明確にしなければいけない時期。でないと、ブディズムもろとも人々の幸福が失われてしまう。

この地の人々がよりどころとすべき確かなもの。ダンマの具体的な中身――。

それを明確にできれば、この地の人々は団結できるだろう。自分たちの生活を守ることができるだろう。たぶんそういうことなのだろうと思う。

今回旅しているうちに、ひとつのプロジェクト、使命のようなものが浮かび上がってきた。

ダンマ・ディスコース(法話)のプログラムを作ること。

一日あるいは数日規模の、ダンマを学ぶ集中講座を作って、この地で発信する。

このプログラムに参加してもらえれば、ダンマの本質――守るべきもの――が見えてくる。そういう内容。

日本でやっていることと内容は重なってくる。ただ、この地でのプログラムは“危機意識”に基づいている。彼らに守るべきものを提供して、それをよりどころにして現実に立ち向かう。

いわば、生き残るためのダンマである。

今回の旅で、かなりの社会活動家とめぐり逢った。場所・人集めは彼らに準備してもらう。私は、次の訪問に向けて、“仏教の本質”を英語バージョンで説き、彼らにとって示唆に富む仏典のエピソードをピックアップして、一冊のテキストを作ろうか。さらには仏教の本質をまとめたリーフレットを作る。その中身について、実際に法話をする――。

インド仏教徒たちは切実な危機意識を持っている。彼らには、“仏教の本質”がきちんと伝わる予感がする。というか、彼らが求めているのは、まさに“仏教の本質”そのものである。明解で、日々のよりどころになるもの。現実をいかに生きるべきかという方針を示してくれるもの。

この苛烈な地に“種”をまかなくてはいけない時なのだ――。

この時代は、本当の仏教(≒人々の幸福に真に効果的な方法)を人々の心に直接訴えなければならない歴史的な時期かもしれない。

“伝道”というのは、こうした目的意識をもってやるものかもしれない。

情熱をもって、人々の心のよりどころになるような、力強く、明白な思想を伝える活動である。


やらねば――(!)


そんなことを(熱―く(笑))考えながら帰ってきたら、もう年が明けていた(年越しの風情が……)。


ともあれ、

みなさん、あけましておめでとう!

今年もまたお会いできますように。

あなたの一年が幸福とともにありますように。

龍瞬より手いっぱいの愛を送ります。


バンガロールの仏教徒は知的水準が高い
英語も話せるし高度な話にも食いついてくる

2013年 インド帰郷8 仏教を越えて 


2013年12月30日

午後6時からマハーボディ寺院で3回目のディスコース(法話)。

原始仏典(ティピタカと呼ばれる)の中にも、ブッダオリジナルの教えに近い部分と、後期の付加・創作があるという話をした。どう選別するか。いくつかの視点を紹介した。

質問を募ると、仏教心理学(アビダンマ)の博士号を持ち、ふだん受講生たちに講義をしている教授がたずねてきた。

「あなたの教えによれば、原始仏典はいくつかのオリジナルに近い仏典のみに限られ、さらに八正道とか四聖諦とかごくごく限られた教えだけになってしまう」と不服そう。

「(「限られるとは言っていません)ではあなたに聞きますが、あなたは八正道や四聖諦というものをこれまで一度でも完全に理解し、体得したことがありますか?」

沈黙。


教授「……ブッダは再生Rebirthをはっきり語っています」

「あなたの言うブッダとは、誰のことですか? ゴータマ・ブッダのこと? あるいは、それ以外のテーラワーダ仏教が擁する物語上の27人のブッダ?」


(※テーラワーダ仏教では、ブッダ・ゴータマ以前に27人の覚者がいたとされる。いわゆる28佛思想。またカッサパ、サーリプッタ、モッガラーナもブッダ・ゴータマに並ぶテーラワーダ仏教の開祖とされている。下位カースト出身のブッダ・ゴータマの権威を相対化しようというバラモン・カースト長老の発想だと個人的には認識している。ちなみに学界でゴータマ・ブッダが実在したことが認められたのは19世紀。それ以外は、じつはたしかな根拠がない。)


「再生 Rebirth をどう定義していますか? 生まれ変わりのこと? それとも求めてやまない心Craving が生み出す、この日常の中での“求める心の繰り返し”のこと? 厳密な定義が必要です」


教授「……十二縁起論はテーラワーダ仏教の根幹です。あなたの立場だと仏教を壊してしまうことになります」

「ダンマ(真理Dhamma)は壊せませんよ。あなたは十二縁起論を自身で確かめたことがありますか? あの順番通りに現象が生じると確かめましたか?」


他の生徒が質問してくる。

「私は生まれ変わりRebirthを信じません。私は正しいですか?」

「あなたが正しいかどうかを決められるのはあなただけです。私に決めることはできません」

聴講生たちが意を得たりという感じで笑う。みな、ブッダの思考法がわかってきたみたい(笑)。

教授がさらに質問してくる。

「では(かなり憮然)、ある人が盲目で生まれてくるのはなぜなのか!?」

ちなみにテーラワーダ仏教は、“盲目で生まれてくる人は前世のカルマのせい”だと説く。彼の地では、身体障害をもつ人はむしろ蔑みの対象になっている。

「お医者さんのほうが説明できるかも。私が知るわけないじゃない Ask your doctor. I don’t know.」

教室大笑い。

「前世のカルマというのは“確かめようがない”という点で、それ以上に考えるべきではないテーマなのです。検証不能なことを考えること・説くこと自体が、本当はブッダの教えに反するのです」

仏教の歴史を若干紹介する。バラモン教の影響が多分に混じっていること。原始仏典と呼ばれるものには、当時の宗教観とゴータマ・ブッダの思想とが入り混じっていること。選別しなければ、混乱したままになってしまうこと。

そうした事態は人間の幸福には決して役に立たないこと。

「いくらそのような議論を繰り広げても、ひとは、失うことの苦しみを癒すことはできません。あなたは、そうした議論を重ねることで、本当に自分にとって大切なテーマについて答えを見つけられると思いますか?」とストレートにぶつけてみる。

この地の人々のよいところは、お坊さんの話を真剣に聞くこと。みな真面目に聞いている。


「私たちには、もっと切実な何よりも大切な問題があるはずです。

自身の苦しみ・課題・疑問を解決すること。

現実の社会をよい方向へと作っていくこと。

ブッダは、すべての人間に共通し、この一度きりの人生で解決できる方法、なすべきことのみに限定して教えを解いたのです。すごくシンプルで明解」


輪廻転生とか、前世・来世とか、カルマとか、伝統仏教にまぎれこんだ物語を信じるのは自由。

だが、ブッダはそれをそもそもの目的にしていない。

あくまで、心の浄化、現実の満たされなさからの解放こそが目的で、その目的に沿った合理的な方法を説いたのだ。

生徒はみな、この話にうなずくのである(教授以外(笑))。


ある人曰く、インド人は「宗教を手放せない」民族なのだそうだ。彼らは宗教をとても大切にする。

だが、今宵の法話をみてみると、インド人というのは、宗教と同じように合理的思考にもなじむのがすこぶる速いように感じる。予想以上に理解が速い。「仏教の学び方を教えてもらった」とごく自然に納得している様子なのである。

次回再訪したときには、5回のシリーズ講座をこの寺院ですることに。他の僧院でも法話をさせていただくことになった。


仏教というより“合理的思考”を知るべきなのである。合理的思考こそは、宗教を超えて、人間がいつまでも必要とするものだろうから。

また仏教は合理的思考にこそ貢献すべきなのである。合理的思考が第一。仏教は第二。考えるべき順番がちがう。

そういう視点に立ってみるとむしろ、ブッダの教えというのは、案外かぎりなく合理的思考に近い、というか合理的思考そのものということが見えてくる。

その結果、合理的思考に徹すれば、そのままブッダの教えになるのである。


この合理的思考としてのブディズムをこの地でこれから伝え始めたいと思う。どんな議論も歓迎である。

議論を重ねる中で、どうしても否定できない本当の真理(ダンマ)というものが明らかになってくるだろう。


たとえば、めざすべき“正しい方向性”――自身の幸福。現実の改善。

その出発点としての“正しい理解”。慈しみを心の土台にすえること。

そして正しい方向性にたどりつくための“正しい方法”  (瞑想? 医学? 科学? 政治? 目的と場面による)


これらの要素を欠いてはどこにも進めはしない。


これこそが、原始仏典のブッダの言葉の背景にある、最も純粋な思考のフォーマット(=考えを組み立てる際の枠組み・ひながた)なのである。

合理的に(=妄想を排除して) 仏典を読めば、それがわかる。


そういう形で思考を組み立てていく。仏典を読み解き、それぞれの現実に活かす。

これは宗教ではない。正しい思考(考え方)であり、正しい生き方に奉仕してくれるものである。


インドにおいては、宗教も合理的思考も、案外同じように受けいれられるのではないかという印象を持った。やってみる価値はあるだろう。少なくとも、ナグプールでも、このバンガロールでも、理解しようと努める人はたくさんいる。


真実守るべきものが明らかになっていけば、人々の迷いは減っていくだろう。

守るべきものが本当は何なのか、もっとはっきりしてくるはずだ。

それこそが、人々にとっての‘武器’になる。

ブディズムにおける武器とは、人間にとって真に大切なものを守るための智慧である。



今回の旅は、これからの活動の方向性をはっきりさせてくれたような気がする。

人々は真実のダンマ――幸福への知慧――を求めている。

この命は、そのダンマを説くことが仕事なのである。大きな可能性が広がっている。

すべての人は、合理的な(正しい)方法によって、それぞれの幸せに近づいていくべきだ。

それが、私の思いである。慈しみに基づく、現代を生きる出家としての発想。


生徒さんたちと一緒に外へ。雨が降っていた。この旅ではじめてめぐり逢う雨である。

この世界には、もっと慈雨が必要だ。




バンガロールには信仰心と組織力を併せ持った仏教徒たちがいる
寺院を見れば彼らの運営能力がわかる。 

 
講義の後で
妄信ではなく問いを発せる人たちだった
ブッダの教えを理解できる素地がある

 

2013年インド帰郷7 満月夜

                
12月28日

昨夜チェンナイから列車でバンガロールBangaloreに移動。気温が年中30度を超えないというインドの避暑地。ワスの友だちで地元の社会活動家の家に泊まる。

翌朝、マハーボディソサエティ(大仏協会)というスリランカ系の寺院を訪問。一等地にあってよく手入れされた美しい寺院。

長老と数名の比丘と50名くらいの沙門(小僧)と在家信者が、本堂に集まっている。壇上に座らせてもらってスリランカスタイルの法要(プージャ)を行う。

午後4時からは、ダンマディスコース(法話)を一つ。聴講者は熱心な在家信者たち。

希望Hopeについて――東北で起きたこと。その後地元で起きていること。希望を失って自死を選ぶ人すら出ている現状があること。こういう状況において、希望というのは存在するのだろうか。どうやって希望を見つければいいのだろうか。

四つの慈しみの話をする。

去っていった人、今生きている人、これから生まれてくる者たちへの慈しみを願うこと。幸せであるように――メッタ(Metta:慈しみ)と呼ぶ。

悲しみに共感すること。痛みあるときに、その人の痛みをただ感じ取ろうと努めること――カルナ(Karuna:悲の心)と呼ぶ。(悲しみに共感できる心は、けっして孤独にはならないものだ。)

喜びに共感すること。小さな喜びあるときに、その人の喜びをわが喜びとして感じ取ること――ムディタ(Mudita:喜の心)と呼ぶ。

そして自らの痛み・悲しみを否定することなく、ただあるがままに観ること。

痛みから逃れようとするのではなく(なぜならそれは新しい怒りを生むから)、痛みにただ気づくこと。

気づけば、手放せる可能性が生まれる。痛みを手放すことをウペッカー(Upekka)と呼ぶ。

希望とは、この四つの心から芽生えていくものではないか。自分ではなく、ひとびとの痛みと楽しみを見る。ひとびとの幸せを願う。そして自らのうちにある悲しみは、あるがままに見つめる、ともに生きることで、せめて呑みこまれないように努める――。

ときに計り知れなく難しいことかもしれないが、この四つの心を育てることは一番正しい苦難の乗り越え方。そして希望の育て方――。

若い婦人が質問――「苦しんで亡くなった人にはどんな思いを向ければいいですか」。

仏教では、苦しみは八つの種類をもって語られる。だが、どの苦しみも死してなお続くものはない。ひとの苦しみというのはすべて、この現実の人生における苦しみである。

だから、去っていった人々はみな苦しみから解き放たれていると思えばよい。

もとより、この世界は、苦しみではなく、慈しみによってできているのではないか。でなければ、百数十億年もの間宇宙が続くことはない。人々が今日に至るまで生きながらえているわけはない。人々がこの世界で生き、また星々が今宵のように天一杯に輝いているのは、この宇宙が慈しみに満ちているからではないか。“生きなさい”“生きていい”という意志があるからとはいえないか。

人はただ、その慈しみの豊穣へと心をゆだねればよい――。

去りしその人は、すでに解き放たれている。そう思っていいと私は思う。

ご婦人は、答えをずっと探していたという。法話が終わったあと、「慈しみをもって見たら、見え方が全然ちがうのですね」と語っていた。その通りだと思う。ダンマ(真理)をもってすれば世界の見え方はがらりと変わる。

しんと静まったひとときのあと、質問が続いた。
 

「慈しみで心の汚れはほんとうに払えるのか?」とか「バンテジー(お坊さん=私)の経歴を教えてほしい」とか。みなで記念写真。

ちなみに、質問したご婦人は日本のアニメファンなのだそう(笑)。イヌヤシャとかムシ(?)とか。ドラえもんはこの地でも人気(藤子不二雄ってすごい)。

夜7時から満月夜の法事。千本のキャンドルが幻想的な炎(ほむら)をともす中、菩提樹の周りを僧たちと回る。たまには伝統にどっぷり浸かるのも悪くない。

そのあとほかの僧たちとともにジュースをいただく(夕食は戒律違反だから)。ホットミルクにきなこを混ぜて飲む。きなこってインドにもあるんだ。

そのあと在家の人たちに招かれて近くのレストランへ。今日の法話に参加していた人や、新しい人たちが集まっていた。今日のような実践的な話をもっと聞きたいという。

明日も法話をすることに。メディテーション(瞑想)について聞きたいとリクエストが。

世話役のムッリ氏が言うに、

「みな、今日の法話にとっても、とっても満足していた Very, very happy。たいてい彼らが満足を語ることはないのですが」

仏者にとってダンマを分かち合えることほどの喜びはない。この地にも最高の法友(ダンマフレンズ)がいたということだろう。

幸いな一日だった――。



新年はブッダに額(ぬか)づいて迎える
俗世と異なるのは、徹底しておのれを懺悔することだ
慢は愚かさの最たるもの
それが出家たる者の前提である


2013年インド帰郷6 道の孤独  


2013年12月27日

チェンナイ郊外の村を訪問。この村には1万3千人の村人が住み、そのうち十分の一が仏教徒。熱心に活動しているのは6家族のみ。

彼らが新しい土地を買って、簡素なビハールと僧侶滞在用のクティ(ちっちゃな家)を作った。僧侶はいない。残りの敷地は緑ぼうぼうの更地のまま。

協会の理事長さんほか主要メンバーと会う。みなでビハール最初のプージャ(供養式)をやる。座り方からガイドする。

それからダンマトーク。彼らは仏教の話を聞く機会がほとんどないので、五戒文(殺生しない、盗みをしない、といった仏教徒の基本ルール)を唱えるくらししか知らない。“瞑想”の話をしても、ポカンとしている。

どんな状況にあっても、ものごとを正しく理解できれば、心の葛藤は消える。信じるのではなく、正しく理解しようと務めること。理解の先に悟り Enlightenment がある。ブッダはそういう道を示した人。理解を育てる基本の方法がサティ――といった話をする。

 

チェンナイ郊外でのプージャ(法事)




ちなみにこの地で仏教を語ると、いろんな反応が返ってくる。たいがいの場所では好評。みな嬉しそうな顔で見送ってくれる。

ただ複雑な反応が返ってくることもある。ある村で話したときは、村人の老父のひとりが、「なんで地元の言葉(マラティ語)で話をするんだ(英語なんか話して)」とクレームがあった。

彼らからすると、村に坊主が訪れたことなど一度もない。仏教の作法なんか知らない。せっかく集まったのに英語で話されるなんて……ということらしい(通訳してもらっているのだけど(^^;))。

なるほどな~と思った。彼らの心情は理解できる。たしかに好感をもてる外国人というのは、現地の言葉を話せる人(山形弁を話すアメリカ人とか)。心情はどこの地でも同じである。

「気持ちはわかります I understand your feeling.. ただ私がマラティ語で話せるようになるにはとても時間がかかります。まずはこの出会いをエンジョイするよう心がけてみませんか。


坊さんが初めてきたということ、こうしてお互いに出会えたことって面白いことだと思わない? 出会ったことをまずは楽しみましょう Let's just enjoy seeing each other」という話をする。

あとで聞くと、小難しい反応をしたのは一部の老父たちで、子供や女性たちらほかの人々には好評だったらしい。ラケシュがいうには、あの村には教育も普及していなくて、人々の意識は古いまま。でも初めてお坊さんの話を聞いて、みななにかを考える。あのお坊さんは何を伝えようとしたのか、って。それがすごく大事だ、と言う。

「メッタ (マイトリ、いつくしみ)」 という言葉も、村人ははじめて聞いたという。

あの村の何人かでも、また今日訪ねたこの地でけなげに頑張る村少数派の仏教徒たちも、この新しい言葉を覚えて、それを日頃の心のよりどころにしてくれたら、と想う。

こういう仕事が坊さんの仕事。地味な仕事だけど、人の心に小さな花を咲かせることができるかもしれない仕事。

インドの地は言語もバラバラ、人々もバラバラ。ひとに譲るより自分を優先させる、都合の悪いこと(ゴミやミステイク)は適当にほっぽり出すという、(正直あまりにひどいと思ってしまう(笑))文化がある。

田舎の村にいけば、合理とは無縁の、因襲と盲信の中に眠るように生きている人々がいる。彼らにとってはラーマやクリシュナといった神々は“実在”する存在であって、カーストも輪廻も、当たり前の真理として脳裏にこびりついている。

文字も読めない人々がたくさんいるのである。本を読んで考える、という営みからはるかに遠い意識を生きている。

こうした現実が2500年以上昔からきっと変わらず続いている。それを想うと、ブッダという人は、この地で何を感じていたのか、という疑問が自然に湧いてくる。

ブッダがたどり着いた理解というのは、インドの人々からはあまりにかけ離れていただろう。そのことはブッダも承知であっただろう。だから仏典にあるとおり、伝道を最初はためらったのかもしれない。

インドの現状と比較して、仏典に残るブッダの思想はあまりに合理的で澄みきっている――。

人々は、ブッダのことばを理解していたのか。仏典のエピソードをみると、仏弟子や人々が理解できなかった(反応さえしなかった)話というのもたくさんある。ブッダは教えをあまさず説いたが、人々は理解できなかった――そういう場面がおそらく無数にあったのだろうと思われる。

ブッダは自分が得た理解が人々にも同じように理解されるだろうとは到底考えなかっただろう。自分亡きあと、人々は、この盲信の眠りのなかにただ戻るだけ――そう知っていたのだろうと思う。

それでも、伝えるべきもの、ダンマを伝える。伝えるべき真理はそれ以外にないから。

伝えたあとでそれがどうなるか、人々がどう受けとめるかは、自分が計らえるもの(領域)ではない。


そういう諦念(あきらめ)があったのではないか、と思える。

たどりついた真理以外に自分が伝えるべきものはない。だから、ただ伝える――。

孤独な人だったのだろうと想う。


地元の青年たちと湖畔で対話

古来変わらない仏教徒の流儀


2013年インド帰郷5 ホーム  


2013年12月24日

午後2時発の予定が、堂々の6時間遅れでナグプールからチェンナイへ。

チェンナイに着いたのが午後2時(つまりは所要18時間)。お迎えの男2人と一緒に乗り換えてさらに1時間。そこにもお迎えの男たちが2人ほどいて、総勢6人(ワスが同伴)で目的の会場へ。

今日はもうひとつカレッジの学生たちとのミーティングが予定されていたのだが、列車が遅れたため、二つめの予定のみ。大きな会場を借りきってのセレモニー(日本でいうなら法要)。

ダンマトークをと言われたので、つい最近まで地球を周回していた日本人宇宙飛行士の話をする。彼は高度4百キロ(!)もの上空で時速2万キロを超える速度で地球をわずか90分で回りながら、数百を数える難しいミッションを数ヶ月かけてクリアする。

彼が宇宙で使命を果たせるのはなぜか。個人の能力の高さはもちろんだが、何よりの理由は、還る場所――地球――があるから、とはいえないか。

還る場所があるから、どこまでも自由に進める。難しい作業に集中できる。

彼はどこに還るべきか、どうやって戻るべきかを熟知している。その上での至難の芸当である。

我々にとってのダンマとはそういうもの――戻るべき場所。我々のホーム。

ホームを失ってはいけない。損ねてはいけない。もし失ってしまったら、この過酷な世界の中で我々は再び迷子になってしまう。ブッダやババサブが現れなかった頃の暗黒の社会へと戻ってしまう。

今日のセレモニーは、いわば我々の帰還する場所――ダンマ――を確かめ合う場所。我々はつねに、ダンマに沿って生きているか、ダンマに基づいて活動しているかをチェックしなければいけない。

ダンマさえ足元にあれば、我々はどこまでも自由に活動していい。我々の活動の目的は、インド社会の苦しみをダンマを駆使して解消すること。そのためならどのような方法をとってもよいのだ。ダンマに基づくかぎり。人々の苦悩の解消に役立つかぎり――。

そんな話をした。チェンナイはタミル語という、ヒンディーとはまったく違う言語・異なる文字を使う人々の街。同伴のワスさえ言葉がわからず狼狽していたくらい。この地ではヒンディーより英語のほうが通じるのである。

そのあと、主催者の家で食事。食べ物もナグプールとは違う。ライスを蒸しパンみたいに丸めたもの(イドリーという。どちらかといえば苦手(笑))。家の女の子たちが覗きにくる。インドの子どもたちの瞳は、宝石が三つくらい入っているかのようにきらきらしている(☆▽☆)。

帰りの夜は、初めて出会った篤実なインド仏教徒たちと電車に乗ってガタンゴトン――。

なんだかこの三年半もずっとインドでこのような活動をしていたような気になる。たぶん、十年、数十年とこの地で活動していれば、それこそあっという間に一生を終えてしまうだろう。それくらい変化に富んだ濃密な時間がここにはある。

駅舎のゲストハウスに泊まる。インドは空気も水もはっきり言って清潔とは対極にあるし(というか衛生観念というものがシャットダウンしている感がある(笑))、言語も食べ物も州・地方によってまったく異質になる。

「この地で生きていくのは大変だな~」というのが実感だ(笑)。

現地のインド人僧たちと


2013年インド帰郷4 希望の水 


2013年12月23日

ナグプールマップを作るために、市内を回る。トラの保護地区の森をドライブしていると、目の前に血まみれの老婦が倒れている。家族らしき女性はパニック状態。助手席に座っていた私に「バンテジー!(お坊さん!)」

ただちにメンバーたちと老婦を抱え上げてバンの後部席へ。ディパックが冷静沈着に老婦を抱きとめ、「バイ?バイ?(お義母さん)」と泣き叫ぶ女性を同乗させて急遽発進。日本のような救急体制はこの地にはない。

ラケシュが車を運転。バンに乗っていたワスほか二人は車を降りてバイクで後に続く。流れるような連携。誰が何を語るまでもなく、みな何をすべきか知っている。

あとで友たちがいうには、家族が路上で助けを求めても、ドライバーたちは警察沙汰を恐れて止まってくれなかったそうだ。坊さん(つまり私)が乗っている車なら助けてくれるだろうと思ったという。警察も坊さんが乗っている車に目をつけはしない。僧であることが意外なところで役に立った様子である。

病院に運び込む。脳挫傷で、意外な重症らしい。老婦は車内で吐いてしまって、抱きとめていたディパックのワイシャツとズボンは血と吐瀉物で汚れてしまった。それでもディパックはイヤな顔ひとつしない。このチームは尊敬すべき仲間たちで作られている。新しい服一式をディパックにプレゼントした。



日本〇〇社からいただいた水質浄化剤を、いくつかの場所でデモンストレーション。反響が大きい。インド全土で水の汚染が問題になっている。

“〇〇〇”は、池・川・井戸の水を汲み上げて、浄化剤(粉末)を攪拌するだけで汚染物質が凝固、沈殿するという画期的なもの。浮遊物が舞う水がみるみる透明になっていくのをみて、みな笑い出す。

この浄化技術は、これまでの濾過という浄化法とは、原理・発想がまったく違う。私が飲んで見せるまでもなく、みなためらいなく飲み干す。

水の汚染で困っている人々に優先的に頒布する、利益が上がる段階になったら、何割かを地域改善に役立てる、利益の活かし方としてコミュニティ全体のインフラ整備・保険・基金などに当てる、あるいは社会活動を頑張っている篤志の団体・個人を表彰する、奨学金にあてる、といった方向性を話し合う。

この幸運を次の善き価値の創造へ――この地の団結力と技術力と正しい動機をもってすれば、かなりの成果が見込めるだろう。

〇〇〇社のバングラデシュでの活動を特集したテレビ番組をみな熱心に見ている。製品の名と社長の「〇〇センセイ」を覚えてもらった。

いくつかのハードルがある。ひとつは政府の認可(ISI)を得ること。これは可能らしい。もうひとつの壁は、「市場で売る」こと。インドの飲料水市場は、ヴァイシャ(商人)カーストで寡占されている。上位カーストの事業に割り込もうとすれば必ず妨害されるという(このあたりはほかの国とは違う事情がある)。

まずはウダサ村からスタート。近郊村落での頒布。地域限定で売ることは難しくない。もし「売る」ことが難しい状況であれば組合形式にして会費を集めるという形ではどうかという話。いろんなやり方があるだろう。「ステップ・バイ・ステップ」で状況を変えていけばいい、という話。

すべては「〇〇センセイ」が来てからの話。この新しい水プロジェクトは、インド社会に大きな慈雨をもたらす可能性を秘めている。成功を願う。

工場排水で水道水が黄色く変色 地元の人たちが立ち上がった

今回のプロジェクトはその現地報告を受けて日本で動いたもの


2013年インド帰郷3 変わらないもの


2013年12月21日

インドが面白いのは、人のキャラクターが“読めない”こと。

見るからに極悪人らしき目つきの悪いヒゲもじゃの中年男が、全インドに名の知れ渡った人気俳優だったりする。

今朝会った“おっさん”は、ステテコ姿で目の前であくびをし鼻くそをほじりながらワスと私と話をしていた。実は彼は、インド初の仏教チャンネルの創始者である。今や全インドで放映されていて、テレビチャンネルをひねれば仏教関連の番組が見られる。

商業コマーシャルは入れずに、寄付を募る。そのため赤字が続いている。どうすればいいと思うかと聞くので、ダンマワーク(いうなれば社会事業)をしている企業を宣伝すればよいのではないかと伝える。売り方の問題。「私もそう考えていた」とうなずく。

その日の夕刻には、ワスと私は、その仏教チャンネル(The Lord Buddha TV)のスタジオにいた。番組に出演することになっちゃったのである(笑)。台本もインタビュアーの英語もいい加減で、このあたりはインド的(笑)。途中ひとが入ってきたり、誰かのモバイルが鳴り出したりとこのあたりはもっとインド的(^□^;)。

「ババサブ(アンベドカル博士)の著作『ブッダとそのダンマ』の印象は?」

「あなたの僧侶としての活動の目的は何か?」

「仏教が滅びたインドでこれから仏教を広めていくにはどうすればいいと思うか?」

といった質問に答える。

最後に「日本語でインドの人たちにメッセージを」(何言ったか忘れた(笑)。ブッダテレビ見てね、という内容だったか(笑))




そのあと、最初(6年前)にインドに滞在したときに出会った人の家を訪問。

あの頃は、私はこの先の人生をこの地で生きていくのだと覚悟を決めていた。当時の自身のひたむきさ・仏教という新しい道への信頼を思い出した。嫁に行く女性のつつましい心境とはこういうものかと感じたものである(笑)。

インド社会は変わらないし、インドの人々も変わらない。

平気でウソをつく・だますしょうもない人間もいるが、この地で私が知る仏教徒の人々はみなとにかく敬虔で、情熱的で、ひとを信じる。


ただ、大きく変わってしまっていた関係もある。

ひとは、美しく歳を取ることは難しいものらしい。

初めてインド入りした時以来の友人たち

善良なのはむしろ市井の人々だ



2013年インド帰郷2「たこやき、知ってる?」

2013年12月20日


朝、学校 (GenuineDhammaScholarConvent の子どもたちにあいさつ。3歳から5歳半。総勢 110名。
 

みな近郊村落の子どもたちで、家庭は裕福ではない。月の授業料は100ルピー(160円)。その額も払えない家庭もあるという。朝8時から昼すぎまで授業。全部英語。

“Do you understand English?” (英語はわかる?) と聞くと、”Yes!” と元気な声が返ってくる。

“Do you like school?” (学校は好き?) “Yes!”

“Are you hungry?”  (お腹すいた?) “No!”(おおっ、分かっている!)
 

日本から持ってきた“うまい棒”を配る。

“Japanese school kids like this snack very much. Do you want to try it?”

(日本の学校の子どもたちが大好きなスナックです。食べてみたい?)

“イエス!”

3種類の味がある。

“Do you know cheese?” (これはチーズ味。知ってる?) “イエス!”

“Do you know Takoyaki?” (たこやき、知ってる?)  “ノー!”

“Do you know Mentaiko?” (明太子、知ってる?)  “ノー!”(そりゃそうでしょ(笑))

“Do you wanna try?”(食べてみたい?) “イエス!”

インドの村には学校がないところもたくさんあるし、あっても公立校の教育レベルは相当低い。だから裕福な家庭の子供たちは私立に通う。ただ村落の子どもたちは親が貧しくてその機会はない。だから我々は自分たちで幼稚園を作ったのである。

土地を購入できれば、小学校、中学校と建設する予定。すでに市内には、大学生・卒業生のための寄宿寮ができている。もちろん今は大赤字。メンバーたち(ワスやラケシュ)はみな農家。維持費のけっこうな額を自腹で払っている。それが喜びなのだと笑う。


近所の民家の空いていた部屋からスタート

2013年インド帰郷1 再び奇跡の中へ

2013年12月18日 バンコクからカルカッタへ。

カルカッタのアウラ駅から、ラケシュに電話を入れる。声を発せば、すぐに“ジャイビーム”の声が返ってくる。変わらぬ澄んだ声だ。あまりに広い世界の中でこれほどに通じ合える友情をみつけるのは果てしなくむずかしいだろう。インドで彼らに巡り逢えただけで、私の人生はめったにない奇跡を得たといえるのかもしれない。
 

カルカッタから18時間(夜9時55分発→翌日午後4時着)かけて、いよいよナグプールに到着。

GDIA(Genuine Dhamma International Association:私たちが作った組織)のメンバーが駅で迎えてくれた。3年半ぶりである。 


ナグプールの街はほとんど変わっていなかった。駅前のオレンジ市場も、甚だ煤けた外気も、まったく気遣いというものに無縁に見える不躾なインド人のふるまいも(容赦なくホーンを鳴らし、啖を吐き捨て、埃の舞う中に料理を晒し……)。

車に乗って、最初に向かったのが警察署。警察署長が仏教徒で、メンバーの友だち。ふっくら顔の人のよさそうなおじさん。

(ちなみに後日会った州政府の役人たち(女性含む)も、みな人当たりがすこぶるよい。あとで聞いた話だと、みなマハール・カーストという不可触民出身だから偉ぶらないのだという。バラモンカーストの横柄さはこの南部マハーラシュトラ州ではほとんどみられない。この州の9割以上はマハールだそうだ。)

そのあと、GDIAの学生寮へ。生活しているのは大学院生。法律専攻も文学や福祉専攻者もいる。大学講師をやっている男性が寮生の勉強を見ている。「1日13時間の勉強が義務」と壁紙に。朝3時半にはみな起きる。

「集中力を上げるにはどうすればいいか」「ひと前で緊張してしまうのだがどうすればいいか」といった質問が。 


気づきMindfulnessの力を上げる、ひとに話そうとする(ひとを見る)のではなく、自分の内に向かって語りかけるようにする、といった話をする(このあたりは、日本での経験が役立った(笑))。

とにかく、みな敬虔・まじめ。この寮にいる青年たちは、郊外の貧しい村落出身者で、この寮がなければ学業を遂げることができないという。この寮の生活費は無料。建物のオーナーが全額支援している。そういう篤志家はこの地にはわんさかいる。

そのあとさらに、GDIAのセンターへ。これまた3階建ての瀟洒な建物。こっちは公務員試験をめざす20代前半の女性たちが一緒に暮らしている。彼女たちも無料。けっこうな額をGDIAのメンバーが負担している。最年長者のワスが言うに、

「今支援することで彼らは社会のリーダーになれる。そしたら、支援した分は十分返ってくる」という。
 

日本人が泊まれる部屋もある。GDIAを最初に作ったウダサ村にもゲストハウスを建設中。
 

そして3年半ぶりに、ウダサ村へ。ここが私の第二の故郷(出家した身にすれば第一の故郷かもしれない)。3年半前はただの平屋だった建物が、110人の子供たちを抱える英語学校に変わっている。さらに6500平方フィートの土地を借金してまで購入するという。

「今買っておけば、次の世代が使ってくれる」と40歳のワス。

「フォロワーはいらない。社会のリーダーを育てたい」

「ババサブ(アンベドカル博士)のおかげで法律はできている。あとはそれを執行する上層の公務員を育てたい」という。

なんというか、鋼(はがね)入りの情熱なのである。

想像以上に、メンバーの活動は先に進んでいた。土地購入にあと20万ルピー(32万円)足りないという。「トライ、トライ、トライ(とにかくがんばる)」と笑っている。日本から持ってきた寄付金は15万円。1年カンパを募ってけっこう集まったと思っていたが、こっちに来てみると……(笑)。

とにかく、動きが大きい。速い。これがインドの友たちである。20年前にババサブの本を読んで、弟ラケシュたちを教育し始めた最年長者のワスは、時間があるといろんな場所に出かけて人に会いネットワークを広げている(その活気あるつながりぶりはフェイスブックの比ではない(笑))。ラケシュはウダサ村の自治会長として広い人脈と影響力を持っている。その親友のディパックは、独学でカレッジに進み法律を学んだ。 


彼らを中心として、ナグプールにはインド社会の改善をめざす仏教徒たちの幅広いネットワークがある。弁護士も会計士も州政府の高官も警察署長も医師の青年団も学校・研究所・大学の経営者もいる。

ナグプールに身を投じれば、瞬く間に、彼らとつながっていることを知る。彼らはダンマを求めている。

ダンマ(法・真理。仏教の別称)とは、彼らにとって、インド社会を効果的に変えるための知慧であり、心の支柱だ。

この命に求められている役割は、ダンマを語る口であり、ダンマを実践する身である。 


かっちりとこの身がピースとして埋まるのを知る。 


これが龍の街ナグプールでの初日である。 

 

ナグプール仏教徒の聖地ディクシャ・ブーミ
僕らの旅はここから始まった