12月28日
昨夜チェンナイから列車でバンガロールBangaloreに移動。気温が年中30度を超えないというインドの避暑地。ワスの友だちで地元の社会活動家の家に泊まる。
翌朝、マハーボディソサエティ(大仏協会)というスリランカ系の寺院を訪問。一等地にあってよく手入れされた美しい寺院。
長老と数名の比丘と50名くらいの沙門(小僧)と在家信者が、本堂に集まっている。壇上に座らせてもらってスリランカスタイルの法要(プージャ)を行う。
午後4時からは、ダンマディスコース(法話)を一つ。聴講者は熱心な在家信者たち。
希望Hopeについて――東北で起きたこと。その後地元で起きていること。希望を失って自死を選ぶ人すら出ている現状があること。こういう状況において、希望というのは存在するのだろうか。どうやって希望を見つければいいのだろうか。
四つの慈しみの話をする。
去っていった人、今生きている人、これから生まれてくる者たちへの慈しみを願うこと。幸せであるように――メッタ(Metta:慈しみ)と呼ぶ。
悲しみに共感すること。痛みあるときに、その人の痛みをただ感じ取ろうと努めること――カルナ(Karuna:悲の心)と呼ぶ。(悲しみに共感できる心は、けっして孤独にはならないものだ。)
喜びに共感すること。小さな喜びあるときに、その人の喜びをわが喜びとして感じ取ること――ムディタ(Mudita:喜の心)と呼ぶ。
そして自らの痛み・悲しみを否定することなく、ただあるがままに観ること。
痛みから逃れようとするのではなく(なぜならそれは新しい怒りを生むから)、痛みにただ気づくこと。
気づけば、手放せる可能性が生まれる。痛みを手放すことをウペッカー(Upekka)と呼ぶ。
希望とは、この四つの心から芽生えていくものではないか。自分ではなく、ひとびとの痛みと楽しみを見る。ひとびとの幸せを願う。そして自らのうちにある悲しみは、あるがままに見つめる、ともに生きることで、せめて呑みこまれないように努める――。
ときに計り知れなく難しいことかもしれないが、この四つの心を育てることは一番正しい苦難の乗り越え方。そして希望の育て方――。
若い婦人が質問――「苦しんで亡くなった人にはどんな思いを向ければいいですか」。
仏教では、苦しみは八つの種類をもって語られる。だが、どの苦しみも死してなお続くものはない。ひとの苦しみというのはすべて、この現実の人生における苦しみである。
だから、去っていった人々はみな苦しみから解き放たれていると思えばよい。
もとより、この世界は、苦しみではなく、慈しみによってできているのではないか。でなければ、百数十億年もの間宇宙が続くことはない。人々が今日に至るまで生きながらえているわけはない。人々がこの世界で生き、また星々が今宵のように天一杯に輝いているのは、この宇宙が慈しみに満ちているからではないか。“生きなさい”“生きていい”という意志があるからとはいえないか。
人はただ、その慈しみの豊穣へと心をゆだねればよい――。
去りしその人は、すでに解き放たれている。そう思っていいと私は思う。
ご婦人は、答えをずっと探していたという。法話が終わったあと、「慈しみをもって見たら、見え方が全然ちがうのですね」と語っていた。その通りだと思う。ダンマ(真理)をもってすれば世界の見え方はがらりと変わる。
しんと静まったひとときのあと、質問が続いた。
「慈しみで心の汚れはほんとうに払えるのか?」とか「バンテジー(お坊さん=私)の経歴を教えてほしい」とか。みなで記念写真。
ちなみに、質問したご婦人は日本のアニメファンなのだそう(笑)。イヌヤシャとかムシ(?)とか。ドラえもんはこの地でも人気(藤子不二雄ってすごい)。
夜7時から満月夜の法事。千本のキャンドルが幻想的な炎(ほむら)をともす中、菩提樹の周りを僧たちと回る。たまには伝統にどっぷり浸かるのも悪くない。
そのあとほかの僧たちとともにジュースをいただく(夕食は戒律違反だから)。ホットミルクにきなこを混ぜて飲む。きなこってインドにもあるんだ。
そのあと在家の人たちに招かれて近くのレストランへ。今日の法話に参加していた人や、新しい人たちが集まっていた。今日のような実践的な話をもっと聞きたいという。
明日も法話をすることに。メディテーション(瞑想)について聞きたいとリクエストが。
世話役のムッリ氏が言うに、
「みな、今日の法話にとっても、とっても満足していた Very, very happy。たいてい彼らが満足を語ることはないのですが」
仏者にとってダンマを分かち合えることほどの喜びはない。この地にも最高の法友(ダンマフレンズ)がいたということだろう。
幸いな一日だった――。
新年はブッダに額(ぬか)づいて迎える
俗世と異なるのは、徹底しておのれを懺悔することだ
慢は愚かさの最たるもの
それが出家たる者の前提である