キャリーケース(道ゴロゴロタイプ)は使わない(笑)というのは、出家の戒律みたいなものです(違うか)。
思い込んだら出家の道を
それでいいのだ
午後3時を過ぎると、ノブが私の部屋にやってくる。教科書と筆記用具を持って。今年は4歳になったチヌ(ラケシュの姉チャヤの一人娘)も加わった。
英語やヒンディー語、算数は2段の四則計算。英語の読み方や簡単な計算方法なら、私も教えることができる。だが難しい内容になると、英語で説明しても伝わらないし、マラティ語は私が話せないしということでお手上げになる。
今は翻訳アプリが使えるので便利になった。だがマラティ語訳をスマホ越しに見せても、二人は興味を示さない。スマホを覗くことより、大人に直接相手にしてもらえることが嬉しい。それが主な目的だからだろうと感じた。
子供が勉強を好きになるのは、大人と一緒に勉強できるときだ。勉強自体が楽しいのではなく、大人がそばにいてくれることが嬉しくて、結果的に勉強が(料理でも運動でもなんでも通用する話だと思うが)好きになるのである。
ノブもチヌも、二人とも勉強が得意というわけではない。どうやらノブは勉強があまり得意でないらしい。器用でないことはわかっていたが、勉強についてはかなりの不得手らしいのだ。
こうした計算は、最初は「みかんが6つとりんご7つが並んでいます」的な具象から始まるが、そのうち抽象的に数だけで計算できるようになる。そのうち”計算未満”の概念としての数が瞬時に浮かぶようになる。単純な四則計算も九九もそう。フラッシュ暗算なんて、絶対理屈で計算しているはずがないと思うが、どうなのだろう。
九九は、インドでは20✕10まで覚えるが、これ、抽象的思考の第一歩だ。子供たちは理屈ではなく音で覚える。インドの場合は、振り付け(ダンス)つきで覚える(笑)。8✕8=64と瞬時に音で出てくるようにする。
算数や数学が苦手な子に教えるには、どうすればいいのだろう。そこには、具象から抽象へのハードルがある。そのハードルを越える”言語”が必要なのだ。
チヌは、わかってもわからなくても(というか、ほとんどわかっていないらしいのだが)、目をクリクリキラキラさせて楽しそうに過ごしている。こういうとき、大人は焦らずとりあえずそばにいてあげるのが、一番らしい。
だが、無理やり成績を上げようとか受験に合格しようといった切羽詰まった雰囲気ではない。教えることが好きな大人が家の一室を開放して、そこに子供たちが集まってくる。子供たちの年齢はバラバラだ。3,4歳の子供も、お姉ちゃんお兄ちゃんにくっついてやってくる。子供たちにとっては遊びの延長みたいなもの。のんびりしている。
子供に向けてイライラや焦りや落胆その他のいろんな思いや感情が湧いてきて、そのすべてが、子供の今を否定する判断となって、子供に「圧」として伝わってしまうだろうと思った。
実際に、そういう野暮で勝手な圧をかけている大人は多かろう。圧どころか、一方的な思いの暴力と化している場面もあるかもしれない。
そうした圧を向けられた時、子供は最初は戸惑い、不機嫌そうな大人の表情を見て、「どうやら勉強ができない自分はダメな子らしい」と察するようになる。自尊心の低下。大人への警戒。最初は単純に「一緒にいるだけで楽しかった」のに。
大人でも否定されることは、つらいものだ。まして「一緒にいることが楽しい」子供の時期に「勉強ができないことが大問題」という判断を突き付けられた子供は、その時点でかなりのショックを受けるはず。
「これくらいできなければ」は、大人の妄想。その妄想が、子供への圧力と化していく。だがこれも妄想なのだ。「今、自分は妄想している。妄想して子供を否定しにかかっている」。そう気づける大人であるべきだ。子供を否定する猛毒を、自分の中で増やしてはいけない。意味がないから(だって、どうすればできるようになるか、なぜできなくてはいけないのかを伝える言語を、自分が持っていないのだから)。
子供たちは、純粋に今を楽しんでいる。大人たちや他の子供たちと一緒に過ごす。その中に食事や遊びや勉強がある。どれも「誰かと一緒にいる」ためのメニューでしかない。
遊びも勉強も、子供たちにとっては体験の一つでしかないのだ。やってみたい、やってみる、やってみた、それだけでいい。やってみることの楽しさを味わう。それだけでいい。それが子供時代を生きるということだ。
やってみて、できることがわかったら、もっと難しいこともできるかもしれないと思ってさらにチャレンジしてみればいい。
やってみればいいだけだ。そして、やり方を考える。やり方を学ぶ。学んだやり方でやってみて、できるかどうかを試してみる。
そうした時間の連続なら、楽しいだけじゃないか。「やってみる」人生に、苦しいことなんてないかもしれない。まさに子供は、そういう人生を生きている。「やってみる」ことが億劫になったり、別の思惑に取って代わられたりして、楽しめなくなった生き物が、大人なのではあるまいか。
子供たちは、「やってみる」を毎日生きて、笑って泣いて、ときに失敗した時は叱られて素直に反省して、瞬時に過去は忘れて、未来を楽観することで、今を全力で生きている。
しかも未来まで時間がある。そのうち勉強がわかる時期が来るかもしれないし、来なくても、いずれ自分にできることを見つけて、社会の中で生きていければ、それでいいのだ。
ノブの憂鬱
ノブが“無敵”だったのは、2歳頃だったと思う。人見知りとは無縁で、どこにでも行き、誰に声をかけられても陽気に答える。2階にある私の部屋にも、「バンテジー!」と意気揚々と上がってきた。
その時の写真とノブが2歳の頃の写真を並べて、ラケシュとシタルに昼間に話をした。幼い子供には、どうしても母親が必要になる。外での活動も大事だが、ノブがもう少し大きくなってからがいい。そう伝えた。
ノブはまだ2歳にもならないうちから、父親ラケシュの手伝いを始めた。村でイベントがあると父親と一緒に手伝おうとする。大人たちが食べた後の器をおぼつかない手つきと足取りで運ぶ。散乱したゴミも拾う。こうした献身を、人生の最初期に始めたのである。
今年の冬は、ラケシュとドライブ中に、交通事故の現場に遭遇したそうだ。大型トラックの車輪にバイクに乗った若者が巻き込まれた。体はバラバラ。胸から下は跡形もなく。血まみれの肉塊が道路に散らばっていたという。
こういうとき、必ず中心になるのがラケシュだ。すかさず警察に連絡して聴取と見分。目も当てられない惨状だが、こんな事態下でも、ノブは平然としているという。「こういう時、何をなすべきかを考えて、行動に移す。それだけ」とラケシュは笑って言うが、父親の動きを、ノブは幼い頃から間近に見ている。
だからだろうか、ムンバイの列車は、いまだにドアがないし、屋根の上に乗る連中もいる。譲り合うという精神は皆無だから、乗降は”我先に”。乗るも降りるも自分優先だから、狭いドア、いやドアなしの出入り口は、二つの群れがぶつかり合う壮絶な修羅場になる(※脚色とも言いきれない現場です)。
行けば死ぬかもしれないというのに、毎年全インドから群がってくる。そして巻き込まれて死ぬ。現地はWIFIが通っていないから、SNSにも上がらないのだという。いやそれならテレビや新聞で報道するだろうと日本人の私は思うが、なぜかされない。もはや当たり前すぎて報道の価値もないということかもしれないし、ヒンズーの大祭典だから水を差すなということかもしれない。何も考えていないかもしれない。真相は謎。死者数も謎。
話が脱線したが、ラケシュは人間も動物も救ってきた。もう何人助けたかも覚えていない。あるとき、見知らぬ男が家にやってきて、「あなたのおかげで今も生きています」と感謝してきたそうだ。「ぜんぜん覚えていない」とラケシュは笑う。
そういうラケシュと朝から晩まで一緒にいるのがノブである。現実を理解し慈悲をもって動くというブディズムの英才教育と見ても、大袈裟じゃないかもしれない。
そのせいかそうでないのか、夜になるとノブはずいぶん大人しくなってしまう。かたわらでまるで酒を飲んだかのように上機嫌に踊ったり叫んだりしているナチュラルハイ(しかも最強度)のアスカの姿を、力ない笑顔で見守っている。
一度だけ、ノブが大泣きして抗議したことが今回あった。紙コップを積み上げて巨大な「バンテジー(私)の家」を作ってくれたのだが、完成した途端にアスカが破壊したのである。なんという暴君。さすがのノブも泣いた。かわいそうなのでバンテジーも参加して、ノブと一緒に塔を作った(最後の写真)。
消えゆく未来と育つ未来
個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)と母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。
そんなことをしていても、どうせみんなあっという間に死ぬのに。
あの国の人たちが、未来が育つという当たり前の輝きを思い出せる時代がくるのだろうかと、ふと思う。
全編どんよりと暗い(イギリスらしい)映画なのでお付き合いできる人はどうぞ
今年のおみやげ
毎年インド行きの前には、百均と家電量販店に行っておみやげを買いあさる。
自分のためにはとことん出費を渋る(悩みに悩んで最後は買わない選択をしてしまうほどの)貧乏性だが、インドへのおみやげとなると、やたら悩むうえにけっこうな額の買い物をしてしまう。一年に一度だし、今年の子供たちは今年きりだし(すぐ大きくなってしまうし)。
ノブには電車(電池で走る)と飛行機(ライトが着き音が出る)を、一つに絞り切れずに二つ買ってしまった。
ラケシュとシタルには、3Dジグゾーパズルの地球儀(完成させると球体になる)、ブリタの浄水器、フィルターコーヒー(焙煎豆)、充電池セット。
アスカや近所の小さな子用には遊び道具。この点、日本の百均ショップはかなり優秀。ボール、万華鏡、キラキラシール、飛ばして遊ぶやつ(なんと呼べばいいのか)、お風呂遊具、けん玉etc.
買い込んだものをバッグに詰める。私には、あのコロコロ引きずって歩くスーツケース(と呼ぶのか)が性に合わない。背負って運べない量の荷物はそもそも運ぶべきではないという戒律(?)を自分に勝手に課している。そもそもあんなかさばるものを大量生産して、どう処分するんだ、地球の至るところに旅行ケースの山ができてしまうぞと環境への負荷も勝手に懸念してしまう。
だからずっと背負って歩けるサイズのリュック2つで旅行してきた。一つを背負って、ひとつを前に抱えて、サンドイッチ状態で移動する。2つで20キロ行かない。他の乗客の荷物を空港で見て、その巨大さ・重さに仰天する。よく海を飛べるものだと感心してしまう。
今回も2つ背負ってインドに到着。着いたその日から配り始めるのだが、意外だったのはシタルは化粧が嫌いだということ。せっかく買ってきた(といっても百均だが、それでも日本の百均はあなどれないのであるが)ネイルジェルや爪に貼るシールは要らないと言ってきた。
「シンプルに生きたい」のだそうだ。さすがラケシュの妻。 学校の先生たちにあげることに。
コーヒーがラケシュ夫妻のお気に入り。今回はフィルターコーヒーの作り方を伝授。「コーヒーは、豆を挽くところから始まって、淹れ方にも細かい作法があります。宗教みたいなものです」と、半分冗談で半分本当かもしれない俗説を吹き込みながら実演。
ブリタ(浄水器)と充電池セット(パナソニック)も喜んでいた。頭皮マッサージ用の櫛の長いブラシも(百均で売っているお風呂用品)。
だが私が持ってきた電動歯ブラシは爆笑だった。インドでは、朝起きた時に口磨きパウダー(アーユルヴェーダ)を指先につけて口の中を磨くだけ。食後の歯磨きという習慣はない。食べたまま寝るそうな。それでもラケシュの歯は真っ白。昨年94歳で亡くなった父親も、最後まで歯は丈夫だったとか。
インドでは15年前まで歯医者など誰も知らなかったという。最近、ムンバイなどで歯科医が増え始めた。人々も食後の歯磨きを1日に2,3回するようになった。なんとそれから虫歯を患う人々が急増し始めたのだそうだ。
◇
学校にお土産を持って行く。ボールとかバネで飛ばすスクリューとかフラフープとか。
毎年けっこうな量を持ってきているつもりだが、昨年あげたものは全部跡形もなく消えていた。ラケシュによれば、1か月で全部(奪い合っているうちに)壊してしまうのだそうだ。
今回もそれらしいリアクションが。ふさわしくない喩えかもしれないが、難民キャンプに食糧を持ち込んだかのような奪い合いが。譲り合いの精神はゼロ(笑)。
2025年1月下旬