ババジー――つまりラケシュの父親が亡くなったのは、昨年9月だった。
そのときラケシュは悲しんだのか、それ以外の感情を持ったのか、訃報が届いた時に気になったのは、そのことだった。
というのも、ラケシュがシタルと結婚したとき、一家は猛反対して、ラケシュを実家から追い出したからだ。当時は、村全体が衝撃を受けたという(The whole village was shocked. 近所の青年プラジワルの言葉)。というのも、カーストが違うから。しかもシタルの家は真面目なヒンズー教徒。小さな村にとっては、考えられないことだったそうだ。
ラケシュとシタルは、隣のウムレッドという街にアパートを借りて暮らすことになった。二人にとって最も暗い時代だ。今の家を急遽買って住み始めたのは、バンテジー、つまり私が訪問する予定に合わせてだった。私が行かなければ、当分二人はウダサ村に戻らなかったかもしれない。
当時のラケシュは、一家にわだかまりを持っていた。父親も兄弟姉妹も、自分にひどい扱いをしたとこぼしていた。厳格な父親は口も聞かなかった。ラケシュも実家には入れない。そんなぎくしゃくした日々がしばらく続いた。
父親との関係が改善したのは、ノブが生まれてからだ。さすがに孫はかわいいのか、母親シタルをも家に受け入れるようになった。ラケシュも実家に出入りする口実を得た。
ババジーがラケシュが運転する車の後部座席に座って、ノブを膝に抱えていた光景を覚えている。
亡くなる前の半年ほど(私が去った後の3月から)、ババジーは固形物を口にせず、ココナツの汁だけを飲んでいたそうだ。ラケシュは毎日実家に行って、ババジーの身の回りの世話をした。最後の時、ババジーはラケシュの頬をその手で力強く撫でてから、息を引き取ったそうだ。
◇
ババジーの家には、当時の生活用具が残っている。朝4過ぎには、家族が起き出す。ラケシュの母親は大きな水瓶を2つ頭にのせて、2キロ先にある池に水を汲みに行った。長女のマーヤが大きな石臼で小麦を摺って、水を混ぜて叩いて焼いて、チャパティを作る。
水も、今は週に一度、供給車がやってくるが、当時は遠方から早朝に運んできた水瓶と、家にしつらえた小さな石の貯水槽に溜めた水だけだった。それで一日、十人家族が用を足したという。
今はステンレスだが、昔は粘土で作った水瓶だった 一つ5キロくらい これを2つ頭にのせて2キロ先の池まで水を汲みに行っていた
昔の石臼 小麦の脱穀用
ここに水を溜めて使っていた
朝7時前には、農作業に出かける。明るい時間こそが動ける時間帯なのだ。夕方に戻ってきて夕食を取る。当時は貧しくて米を買えず、ベリンジャーという茄子ばかりを毎日焼いて食べていたという。
ちなみに牛の死骸から肉を切り取って干し肉にして食べたこともあったそうだ。生きた牛は神聖だから殺せない。死んだ牛は、清掃処分のついでに、低カーストの人々の食用にされていた。
当時は電気も走っていなかった。日が落ちれば真っ暗。地べたに敷物を敷いて寝た。そんな日々が、つい最近までずっと続いていた。ババジーが生きた時間の大半。ラケシュが幼かった頃。先祖にさかのぼれば、何百年、いや二千年以上か。
ババジーは字が読めない。壁掛け時計の見方を、ラケシュが教えてあげると、それ以来時計を見て時刻を知るようになったという。14インチの小型テレビが今もあるが、最初は、中に人が入っているのではと不思議がったそうだ(テレビにまつわる典型的エピソードだが、本当にそう思うらしい)。
ババジーは、嘘を語らず、人のことも悪く言わない。というか人のことを話さない。黙々と自分の仕事だけをする。年老いて歩けなくなっても、家族に手間を掛けさせず、最後まで自分のことは自分でやり続けた。やせ細った足でよろよろと歩いて、便所や風呂に行って、戻ってきて吊り板の寝台に横たわって。半年くらい、そんな生活をずっと繰り返していた。
◇
ウダサ村の裾を走る国道沿いに、ババジーが守ってきた農地がある。牛もいる。貯水地もある。今はラケシュが継いでいる。
草むらに敷物を敷いて、仏像を置いて、赤い花びらをまいて、そこにババジーの遺骨を供える。ろうそくを灯して、線香に火をつけて、みんなで合掌して、お経を唱える。遺骨の一部を、私は掌に包むようにしてずっと持っていた。
今日集ったのは、ババジーの長男にあたるおじさんと末っ子のラケシュの二人。長女のマーヤに次女のチャヤ。チャヤの一人娘のチヌは4歳で、ラケシュの長男が同じ4歳のノブ(本名リュウシュン)。
長男の叔父に、父親のことで覚えていることはありますか?と訊いたが、感極まって言葉が出てこなかった。いろんな思いが去来するのだろう。
この一帯は国道の近くではあるが、少し奥に入ると、のどかな田園風景に変わる。静かなひととき。今日は快晴だ。
ババジーは、この静かで明るい自然の世界へと帰っていったのです、という話を伝えた。そしてみんなの経をつないで、私が一人経を唱えた。私の経は、場所によって階調が変わる。悲しい場所の時は悲しみを帯びた音色になるし、明るい場所では明るい音調になる。今日は明るかった。
手作りの法事 立派な施設も参列者もいない だがとてもあたたかく優しい時間だった
かつてババジーが座っていた場所に、花を植えたのだ。毎年この季節になると、鮮やかな赤い花を咲かせる。
この場所に来るたびに、父を思い出すだろうとラケシュは言う。ババジーは最高の弔い方をしてもらったようだ。
ラケシュは半年の間、遺骨を置いて、私が来るのを待っていたという。今日はいい日だったね、という話をした。
◇
だが、誰も知らないこのひとときが、はるか遠い未来へとつながっているのである。確実に。
この世界には、今日私たちが体験した時間と同じような、良質で穏やかで幸福な時間が、無数に流れている。
その時間は、それぞれに知る由もなく、過ぎてしまえば永久に帰ってこない、いわば存在しないに等しいとさえいっていい無の時間なのだが、それでも確実に、この世界を作り、未来を創っている。
遠い未来に生まれてくる人たちは、2025年3月という暦で刻まれた今日この日のこの時間のことは、まったく知る由もなく、また想像することもないだろう。それでも今という時間がはるかなる未来と確実につながっていることは、真実である。
逆に時をさかのぼれば、ババジーが若い頃は、まさか将来、自分が父となり、ラケシュという息子を授かり、その息子に男の子と女の子が生まれてくるであろうとは想像しなかっただろうし、
まさか将来、自分の息子が日本人の坊さんをつれてきて、二人してよくわからない活動(と言っておこう)を始めて、それが二十年も続くことになるだろうとも予想しなかっただろう。
ババジーが子供だった頃、青年だった頃、どんな思いを持ったか、どんな時間を過ごしていたかは、未来に生きている私たちには想像する由もないし、本人だって覚えていないだろう。
だが、そうした忘却の河に消えていった無数の時間が、94年も続いた先に、今日の日が、ババジーの想像を超えた未来が到来することになった。
ババジーは未来にあたる今日を想像しなかった。そもそも未来があるということさえ考えなかったかもしれない。ただ生きて、ただ働いて、いつの間にか歩けなくなって、食べられなくなって、静かに卒業していっただけだ。
そのババジーにも父母がいた。さらにその父母、祖父母、祖祖父母と、何十代、何百代と過去にさかのぼったときに、ババジーの先祖にあたる人々は、たしかにインドに生きていたはずである。
その人たちは、まさか数百年、もしかしたら千年後の未来に当たる一日に、こんな時間を過ごす子孫が出てくるとは、想像しなかっただろう。車という鉄の塊がものすごい勢いで走り抜ける、舗装された道を外れたところに、静かな農園があって、そこに自分の遠い子孫にあたる人が埋葬されて、その子供や孫たちが手を合わせて、赤い花をまいているなんて、想像しなかっただろう。
未来とは、つねにそういうものなのだろう。想像さえしない遠い先の世界。
だがその世界を作っているのは、自分が生きている今の世界。
未来には手が届かない。どんな人々が未来の先の一日に生きているのか、想像つかない。
だが今過ごしているこの善良にして尊い時間こそが、遠い時間の先にある未来を創っている。
ただひたすら今を生きるだけでいい。そういうことなのだろう。
それだけで未来につながっていく。未来という花が咲く。
いつか花が咲くという思いさえ持たずに、人は種を撒いている。それが命の営みというものなのだろう。
もういなくなったババジーの寝床
ババジーにとっての未来を、ババジーを想いながら生きている人たちがいる
2025年2月