世界がどんなに広くても


2月7日は、ラマバイ生誕祭。ラマバイ Ramabai Bhimrao Ambedkar は、アンベドカル博士の妻で、この地では博士と同じように崇拝されている。毎年この日に、村のビハールで生誕祭が開かれる。

夜7時半頃から人々がビハールに集まってお経を詠える。婦人たちが何十年も詠い続けたお経を受け取って、私が次に読経。声はスピーカーで村全体に響く。ビハールの外にも村人たちが集っている。

2006年に初めてこの村に来て、翌年ミャンマーに渡った時にも、このビハールの前で村人たちと一緒に過ごした。当時は「必ず帰ってきます」と約束。今回は4年ぶりの帰郷について話した――。

前回は、詩人たちの長時間に及ぶ朗読(といっていいのかさえ怪しかったが)に村人全員がお付き合いさせられて、お尻が痛くなってしまった。壇上に座る詩人たちの後ろにいた私は、立ち上がって「お尻、痛いよね?」と呼びかけるジェスチャーをして村人たちの笑いを誘ったことがあった。その時の姿を再現すると、村人たちが再び笑った。

ミリンも、ラケシュも、メッセージ。最後に私が伝えたのは、

「世界はこんなに広い。でも私が戻ってくるのは、みなさんがいるこの村だけだよ。もう18年も!」

みんな、拍手。
 

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お経の後はビハールの外でみんなと団欒



つくづく不思議な縁だ。ブッダガヤへの道中でラケシュと偶然会って、ごく自然にこの村にたどり着いた。この村では気兼ねは要らない。休む場所も、食事も、必要な時に用意してくれる。忙しい時は放っておいてくれる。

18年前とは明らかに変わった。当時は何も知らなかった。インド仏教徒たちのことも、仏教のことも、生き方も。お金もなかったし、素寒貧の社会不適格者としての人生が始まった。再び浮上していけたのは、インドの心優しい人たちによってだ。


彼らは見返りを求めない。純粋に歓迎して、支えてくれたのだ。だからすべてを捨てた自分でも生きていけた。しかも新しい生きる意味を与えてくれた。あの最初の一年を振り返るだけでも、このさき生涯恩返しをしていく十分な理由があると思える。

ミャンマー、タイに渡って学問と瞑想に励んでいた時も、「必ず帰ってくる」という約束を思い出していた相手は、インドの彼らである。



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ブッダとババサブが授けてくれた因縁だ 何かひとつ欠けていたら今はない



苦悩の理由とそれを越えゆく道。自分自身はどうすれば救われるのか。どう生きていけばいいのか。

世界はなぜ変わらないのか。どうすれば変わりうるのか。

仏教とは何か。ブッダは何を伝えたのか。

この世界で自分にできることは何か。

この村の人たちを、どうやって支えていくか。

すべてがつながって、すべてに答えが出た先にあるのが、今立っているこの場所だ。

今の私に、苦悩も疑問もない。必要な問いには、すべて答えが見えている。

仏教を伝えること。

この村の人たちを、主に学校運営を通して支えていくこと。

日本においても、まだまだできることはある。

新しい価値の創造だ。新たに創ることが、この命の本質だ。




生誕祭では、みなに食事を振るまった。私もお手伝い。

私たちの学校の卒業生が、今回はボランティアとして手伝ってくれた。小さかった男の子が、背の高いイケメンになっていた(笑)。17歳だそうだ。

若い世代が育ってきたから、今回はラケシュもラクだと言っていた。健全な新陳代謝が進んでいる。


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村人への食事は私もお手伝い(一人ずつコミュニケーションが取れるので楽しい)


ラケシュの家に立ち寄ると、ヨシオもヒメコもいた。向かいの家の子供たちも。
 
今のラケシュは幸せに包まれている。私もそのおすそ分けをもらっている。
 



2024年2月7日




木は木のまま生きていく



ある日の午後、ラケシュと話をした。ラケシュは、私と出会うはるか前から、この地で活動してきて、今や知らない人はいないくらいの著名人だ。何しろJICAのデリー支局の日本人スタッフさえその噂を聞いていたくらいだ。ラケシュを慕って集まって来る人は、数えきれないほどいる。

ラケシュは誰のことも批判しない。人のために労を厭わず動くが、それ以外の時間は静かに読書して、子供たちの相手をして過ごしている。人として何ひとつ過ちを犯していない。

だが、そんなラケシュをわざわざ批判する人間たちがいるというのだ。さすがのラケシュも相当な心労を抱えることがあるらしい。そんなときは一人ビハールで瞑想するのだそうだ。

「いつかわかってくれるかもしれないね」という。

「でも変わらない人もいるよね But someone will never change」とも。


私は笑って、「どっちも、ブッダは気にしないよ。他人の姿は、自分のあり方に関係しない。 “期待” expectationがないからね」

期待という言葉にわが意を得たりという表情で、ラケシュは深くうなずいていた。仏教の話を私から聞く時、ラケシュは席を降りて床に座る。つくづく謙虚な人物だ。

「わかってほしい」「そのうち変わるかもしれない」というのは、期待。期待があるから反応してしまう。

「期待は妄想の一種だよ」と話した。


期待を切り離せば(detachすれば)、苦しみは生まれない――。
 

それは、冷たい人間になることかといえば、そうではない。純粋な慈悲であり、完全な尊重だ。どんな思いであろうと、他人が抱くことは自由。批判であれ、悪意であれ、嫉妬であれ、病的な傲慢であれ、何を思って生きるのも、人の選択だ。

その選択は尊重するしかない。

それが慈悲と正しい理解に立つ者たち、ブッダの教えに立つ者の心がまえだ。


期待を完全に切り離せば、他者の悪意によって苦しむことはなくなる。

自分は自分のまま。

ただ自分にできることをやる。価値あることをやる。

そうした自分を誰よりも理解しているから、誰にわかってもらう必要もない。一切影響を受けない。


そんなことができるのか――できる。

単純な話で、妄想を断ち切ればいい。期待という名の妄想が残っている状態が、妄想への執着。その執着を断ち切るとは、妄想を消し去ること、消し切ること。いさぎよく。

それで期待は消える。他人に影響を受けることが消える。


難しく聞こえるが、“自然”(しぜん)は、当たり前のようにやっている。たとえば、木は木である。わざわざ鳥になろうと木は思わないし、鳥にわかってほしいとか感謝されたいとも考えない。突(つつ)かれたって、木としての姿はまったく変わらない。

木は木のままでいて、満たされている。

生き物の呼吸を支え、動物たちにとっての安らぎの場になっている。


キッパリと妄想を斬るだけでいい。すると“木”になれる。
 

もうひとつ、人々の無理解(傲慢)という逆境・困難に遭遇した時こそ、「正しい自分」に帰ることだ。しかも正しさに磨きをかけること。

おのれの言葉を正し、行いを正す。

みずからの思い(仏教徒にとってはダンマ)を確かめ、純粋なつつしみに還る。


つらくなったら、期待という名の妄想を手放して、自分だけを見つめるのだ。

思いを見つめ、完全にまっさらにして renew your mind 、新しく生き直す。つねに新しく。


人々の傲慢に遭遇した時は、この命はお役に立てない(相手が求めていない)と知って、慎みに帰る。つまりは消える。


人は人なのだ。人は異なる心を持つ。だから他人の悪意や傲慢を向けられることは、避けられない。だがこちらが心を使って、おのれの本然(本来の姿)を失うことは愚かなことだ。


大事なことは、人の中にあって、人に染まらず、振り回されずに、最良の自分を保つことだ。

それだけが唯一、人にできること。


生きたいように生きればいい。
僕らは僕らの道を生きていく。


そういう話をラケシュとした。単純に、これまで僕らがやってきたことを、そのまま続け、育てていくだけのこと。これ以上の生き方があるだろうか。


そろそろ今回の旅も終わりに近づいてきた。

人はみな、愛おしい人たちである。


僕らは幸せな人生を生きている。
これ以上は必要ないとつくづく思う。


2024年2月

プージャ(法要)


4年ぶりの帰郷とあって、今回はプージャ(法要)が多かった。ウダサ村、隣のウムレッド、さらにナグプール。足を運ぶと、家族・親戚・近所の人たちが集まっている。

部屋の一角に小さな仏壇(といっても小さな仏像と献花、ろうそくと線香のみのつましい見た目だが)。その前に私が座り、子供たちが座って、施主の夫婦と家族たちが座る。
 
小さな仏像と故人の遺影

 
私の法事がいたく気に入っているノブは、どこにでもついてきて、一番前に座る。「サッベー」を覚えて、私の代わりに先導するまでになった(笑)。

部屋の灯りを消して鈴を鳴らしてスタート。「モバイル・バンダ・カロ」(携帯の電源を切ってください)と、毎回言うのだが、お経を読んでいる途中で、ほぼ確実に誰かの携帯が鳴る(==;)。即、法要中止。バンテジの喝が入る(笑)。

読経にはいくつかパートがある。その合間に、ブッダの教えの要点を解説。それをラケシュが現地語に通訳する。

どの場所でも読経が終わると、フルーツと少しのお布施を供養してくれる。受け取り方には現地の作法があるのだが、私は日本語で”慈しみ”と、それぞれへのメッセージを伝える。「お体がよくなりますように」とか。パーリ語で言っても意味が伝わらないのだから、自分の思いと最も合致する言葉で伝えるほうがよいと思って、ずっとこうしている。

フルーツは少しだけ受け取って、あとはその場でカットして、みんなで食べる。お布施は額はさまざまだが(多くて500ルピー、千円くらい)、滞在中に使うことは、ほとんどない。帰国する時に滞在先の家族にに託すことにしている。

このプージャ、彼らにどんな意味があるのか、ラケシュに訊いてみた。現地の坊さんたちはブッダの教えを説いてくれない。続くのは幽霊や超能力(サイキック・パワー)の話。
 
経文に耳を澄ませて心を洗い、ブッダの教えの本質を確認する。テレビ、スマホ、音楽に毒されている人々にとっては、貴重な時間だとラケシュは言う。

私は「生き方」だけを伝えている(日本と同じ)。現代に生きる人たちにとっては、たしかな価値があるらしい。これからも続けよう。


 
プージャ中に牛が訪問
パパル(自家製の焼きせんべい)をあげると離れていったw


新しい家族(インドの犬と猫)

 
4年ぶりの村での暮らし――人の善さは変わっていないが、変化は見える。村の人口が増えていること、ゴミ収集車が回るようになったこと、そしてハイウェイ仕様に国道が整備されたこと。

村の家並みを越えた高さに車道が走るようになったのだ。ナグプールも開発ラッシュ。モノレールも走り出した。インド全土で怒涛の都市開発が進んでいる。

国道の走り心地は、すこぶるよい。子供の頃のラケシュは、隣町のウムレッドまで、父と一緒に牛車を引いて2時間半かけて(しかも途中で牛のために川に立ち寄ったりして)出かけていたそうだが、今や10分で行けてしまう。


以前と比べて、村に猫が確実に増えた。インドでもペット・ブームなのだそうだ。ただ村の場合は、野生の犬や猫がある日家に入ってきて、餌をあげたらなついて居座るようになったというパターンが多い。

この地では、犬も牛も気ままに移動して暮らしている。“ノブの犬”として飼っていた(というか好きにさせていた)犬は、一年近く姿をくらましていたが、私が来る直前になって、なぜか戻ってきたという。「ヨシオ」(好雄)と命名。性格がよさそうだからw。

さっそく私になついて、なでなでをせがむようになった(私にというより、ビスケットと私の手にだろうと正しく理解しているが)。


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ヨシオは朝礼にも参加しますw


夜になると、ラケシュの家に猫がやってくる。この地でよく見かける灰色猫一家の一員と見る。遠慮のない鳴き声で餌をねだる。これも名前がないというので、「ヒメコ(姫子)」と命名。

なんとエサとしてあげていたのは、缶入りのビスケット。日本の猫好きなら目の色変えて反対するであろう不健康メニュー。だがヒメコ、バリバリ、ウミャウミャと唸りつつ、おいしそうに食べている。ビスケットを猫が食べるとは。


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ビスケット食べるの???


ちょうど近所の婦人が、川魚の揚げ物を差し入れてくれたので、「魚あげたら?」というと、「魚?」とラケシュがびっくりしているのを見て、私がびっくりした。なんとこの地の猫は、魚を喰わないらしい。まあ、魚が棲む川もないし、多くの家はベジだから。

魚の揚げ物をあげてみると、生まれて初めて食べた魚がおいしかったらしく、目を点!にしていた。フンフンと鼻を鳴らしてあたりを探すが見当たらない。魚をくれた私をまっすぐ見て、大声で「魚くれニャ!」と鳴きだした。インドでは、人間も猫も、自己主張が烈しい。ウミャウミャ唸ってかじりついていた。

「でもウチはベジ(野菜)だからね」と、冷ややかに笑うラケシュ。禁断の実を食べさせてしまったのかもしれない・・・。


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アスカもお気に入りのヒメコ・・家族が増えたみたいで楽しい




2024年2月

インドで「自己肯定感」を考える

今度は、ポジティブな面を取り上げよう。ひとつは、やはり村人たちの善良さ。とにかく互いの距離が近い。朝から晩までそれぞれの家を行き来して、子供の世話をしたり、食事を共にしたり、雑談に興じたり。

ひときわ印象的なのが、子供の多さ。たいていの家に子供がいる。成長すると、多くは20代で結婚するので(※都市圏では晩婚化が進んでいるが)、すぐ孫ができる。だから多くの家は三世代。

村での子育てを見ていると、子供を育てることはそんなに難しいことではないように思えてくる。食べさせて、遊ばせて、学校の勉強を見て、その合い間に近所の婦人や子供たち(お姉ちゃん・お兄ちゃん)が頻繁にやってくるから、彼らにも面倒を見てもらう。バンテジ(坊さん)の私も遊んだり、勉強を教えたり。親の負担はおのずと減る。


近所の婦人たちと女の子が、子供一人を可愛がる 




そして連日のようにある誕生日。何しろ子供の数が多いから(ほんとびっくりする)、夜な夜な、どこかの家で誕生日会がある。近所の友だちも大人たちも集まって、「ハッピ・バースデイ♪」をやっている。

ロウソク花火に火をつけて、ケーキに入刀して、小分けしたケーキを、誕生日を迎えた子供がみんなに配る。集まった人たちはお小遣い(10ルピーから100ルピー)をあげて祝福する。


誕生日会に集まってきた村人たち
子供、若者、大人たち この見事な世代構成を見よw


日本では「自己肯定感」という言葉をよく聞くが、「自己否定」を摺り込まれたからこそ、逆張りの概念がわざわざ必要になっただけだろう。この地にいると、自己肯定感の元々の意味がわかる気がする。

そもそもの自己肯定感とは、誰かが自分を見てくれている、守ってくれているという安心感なのだろうと思う。

この村では、子供は放っておいてくれない。大人から年長の子供まで、ひきりなしに誰かがかまってくれて、放課後は近所の子たちと遊び、夜は誰かの家に行ってまた遊ぶ。いつも人の中にいる。そして家に帰って、親や祖父母と雑魚寝する。

見てもらえているという安心感が、いつもある。自己否定などという不自然な妄想が入り込む余地が限りなく少ないように見える。

自己肯定感が、人との親密さ・見てもらえているという安心感から育つとすれば、日本人の自己肯定感の低さは、人間関係の過疎と、見守るとは真逆の過剰なジャッジメント(干渉、評価、しつけ、さらに教育という名のダメ出し)から来ているような気がする。

そもそも日本人は神経質過ぎるのだろう。その根っこにあるのは、人の目か、世間体か、自分が作り出した過剰な妄想か。制御が効かない大人の側の妄想を、子供に押しつけ、干渉したり裁いたり。

そうした大人の妄想を浴びて育つ子供には、自信が育たない。自分が親になった時に、子育てに自信が持てない。「これくらいで十分」という(寛容の)目安を知らないからだ。

しかも核家族化は極限まで進み、世代も地域共同体も分断された社会の中で、孤独な子育てを強いられる。少し想像するだけでも「つらい子育て」の姿が浮かんでくる。

インドの村で見る子育ては、「これくらいで十分」という目安が確立している。親は、自分にも子供にも寛容でいられる。他方、日本では、「あれをしてはいけない、これをやってはマズイ(かも?)」という親の側のダメ出し(自己検閲)が多すぎるのかもしれない。

こうした環境で育つ子供は、どうしたって自己肯定感は低くならざるを得ない。親も、子も、気の毒に過ぎる(特に若いお母さん)。

「子育てがそんなに難しいはずはない」という原点を、まずは思い出そうではないですか。

 

 

よく来たねとあいさつ


まとめ

大人たちにこれほどたっぷり愛されれば、

自分を、世界を、信頼できるようになるのは当然。

そりゃ自己肯定感、育ちます。



2024年2月

風邪を引き続ける国


日本では、いまだにコロナ&インフルが大流行(?)しているという話を聞きます。

それが事実なら、多数回のワクチン接種による免疫機能の低下・阻害が影響している可能性は否定できません。

どの見解が正しいか以前に、少なくともその可能性をも検証することが、倫理(正しい態度)というものです。

接種7回、それでも第10波(止まらない)・・・というのは、医療政策が完全に失敗していることを意味します。もはや指摘するまでもないでしょうが。


「(今回のmRNAワクチンは)打てば打つほど免疫機能を阻害する」というのは、今や多くの人が聞いていること。この場所でも最初からお伝えしてきたことです。

もう一つ考えなければいけないのは、「感染大流行」と言いつつ、これは定点観測の対象となっている指定病院での「検査」によるものであって、「陽性反応者数」でしかないことです。「発症者ベース」ではありません。

「陽性反応者数」が1点あたり20名 ✕ 定点数5000 = 10万人 しかも一週間にわたっての総数。これが本当に大騒ぎ(警戒)しなければいけないことか? 本当に? 

今のように検査による炙り出しをしなかった4年前までは、インフルエンザは発症者数だけで年間1千万人以上。一週間あたり「発症者数で(ゆうに)20万人越え」のレベルでした。それでも社会は受け容れていました。

2024年2月現在、流行っているという報道は聞こえてくるものの、重症者数・死亡者数は未公表。ならば実態はまるで見えません。


※ちなみに定点観測対象の1病院あたり10人以上で注意報、30人で警報レベルというのは、指定病院の病床数を目安とした設定であり、病院側の「病床逼迫」を基準とした設定値です。

これは5類指定に落とすまで、全病床数の(わずか)2%をコロナ病床に当てて「医療逼迫」としていた頃と、基準設定の方法(根拠づけ)は変わりません。指定病院の側から見た(主観的)レベル設定であって、社会全体の利益を考えた(客観的)レベル設定とは、別物です。

「でも周りでも風邪が流行っています」「学級閉鎖にもなっています」という声は聞きますが、だからといって「社会全体が警戒すべきレベル」としていいかといえば、そうとは言い切れません。これは社会が「選択」すべき問題です。

病気は「発症の度合い」で測るべきものです。かつての医療はそうでした。今のように「検査」による炙り出しをもって一律病気とみなすことは、医療政策として正しいのかどうか。

自力で治せる人間まで、検査 ⇒ 陽性反応出た ⇒ 大流行している ⇒ いっそうの予防に努めるべき ⇒ マスクせよ、ワクチン打てと促すことが、正しいか。否、明らかに間違いです。

ひとつは、陽性反応を病気とみなす前提(定義づけ)が間違っているし、予防策としてマスク&ワクチンが有効だというのも、間違いである可能性があります。「止まらない」今の状況は、その間接証拠です。

きわめて軽微、無症状、症状はあっても治る人たちの数までカウントして「大流行」に仕立て上げるのは、「恣意的な選択」であって、倫理ではありません。倫理とは、偏りのない眼で事実をとらえて、「苦しみを増やさない方法」を選択しようとする態度です。

倫理的ではない発言があまりに多かったから、医師・専門家の信用はこの4年でガタ落ちしたのではないでしょうか。



治せる人は自力で治す。

治しきれないリスクがある人は(そうした人たちこそ)医療によって確実にケアしてもらう。

その本筋に戻せばいいだけなのに、まだ新型コロナに始まった過去の過剰な認識と過剰な医療政策を続けようという人々がいます。驚くべきことに、指定病院にはまだ補助金が出ているのだとか。医師会・感染症学会等は引き続き公費負担せよとも言っています・・。

終わらせる(終息させる)という当初の目標はどこに消えたのか。

いつのまにか「終わらせない」ことが目的と化しているかのようです。



ここインドでも、たしかに風邪は流行っています。「冬だから」と人々は言います(拍子抜けするほど当たり前笑)。ケホケホやっている人は、飛行機の中にもいたし、村にもいます。私も至近距離で咳されることもしばしばです(笑)。 が、誰も気にしていません。

「風邪はかかるものだし、治す(自然に治る)もの」という当たり前の常識に戻っています。

日本社会の実情を伝えると(ワクチン7回、第10波、まだ止まらない・・)、みんな目を丸くして驚きます。そして笑います。

どちらがまともかといえば、インドの村人たち(ひいては日本以外の国の人たち)なのだろうと思います。



「感染すれば命が危ない」というのは、よほど老衰が進んでいるか、別の疾患を抱えた人等です。そうした状態にあることを「自覚」した人は用心すべきでしょうが、そうした用心を「治せる人たち」にまで働きかけて巻き込むことは、正しくありません。

社会への負の影響を考慮することが当然だからです。医療「政策」とは、本来そういうものなのです。


誰にとっても最も負担の少ない選択というものがあります。

日本社会だけが、その選択を今なお取ろうとしません。

この国だけが、いまだに「風邪」にかかり続けているということです。


ちなみにインド人の平均年齢は26歳、日本人の平均年齢は49歳です。

毎年、死亡者数の半分未満の数しか生まれてこない(出生者数)自治体も増えてきました。

戦慄するほどの急勾配で人が消えつつあります。いったいこの国は、人々は、どこをめざしているのでしょうか。

日本は国づくりに失敗し続けてきたのだとつくづく思います。


連日のように続く誕生日会 
村の大人たちも集まってお祝い 
みんな笑っている


2024年2月13日



ノブの話

ノブは、ラケシュの息子で今年5歳。戸籍名はリュウシュン。

子供は、見方によっては2歳が“人生の絶頂”なのかもしれない。ノブも2歳の頃までは、天真爛漫で人なつこくて、まさにわが世の春を謳歌していた。

今ももちろん周囲に愛されているが、他の子と違うのは、どこか憂愁がただよっていること。もとからその気配があったが、遊ぶことがあまり好きではない。スマホにもすぐ飽きたし、今もゲームやおもちゃをあげても、熱狂することがほとんどない。最初はパッと表情が明るくなるのだが、すぐ消えてしまう。学校でも一人隅っこにいて、周囲の様子をながめていることがよくある。

さらに家の中では、今はアスカ時代――妹アスカの独壇場だ。ノブが手にしたものを、アスカが略奪する。遊んでいるノブに馬乗りになって妨害してくる。

「野生児」(ジャングル・ムルギ)と化したアスカは、気分高じて、ノブをぶったり蹴ったりすることもある。ノブは殊勝にも耐えているが、やはり甘えたい気持ちが強いのか、ささいなことで大泣きして訴える。

これは、どの家の兄弟姉妹にも明らかな傾向だが、やはり長男・長女は、親の影響をダイレクトに受けるだけでなく、忍耐も強いられるらしい。

対照的に下の子は、多くの家で「野生児」だ。天真爛漫、自由奔放、やんちゃ、わんぱく、わがまま。お兄ちゃんお姉ちゃんの忍耐犠牲を想像することもなく、実にのびのび気楽に育っている(もちろん下の子固有のストレスもありうるが)。

なにしろラケシュの長男だ。ノブは1歳半でソーシャル・ワークを始めたのである。父親と仲間たちの姿を真似して、みずから手伝いを始めた。今もラケシュにくっついて、ほうぼうの地域行事(プログラム)に出かけていく。

こういう子供は、考え抜いてもらうほうが良い気がする。子供であって子供でない子供はいる。いろんな本を読んで、社会の問題も学んでもらって、自分はどう生きればいいかを考えてもらうのだ。

1歳半(当時)で手伝い始めたノブ(ラマバイ生誕祭にて)
エラすぎでしょ・・



ノブは、おじさん的存在バンテジにも、すこぶるなついている。プージャ(法事)には必ずついてくる。私の読経が好きらしく、一生懸命真似して覚えようとしている。関係ない場面でも遊びのつもりで、ナモナモと礼拝したりする。

ノブの宿題の面倒を見たり、ホッケーゲームに興じたりと、私もいいオジサンとして関わっているが、父親ラケシュにはない厳しさもある。

ある晩、プージャがあって、ノブもついて行きたいというので連れて行ったが、今度は家に帰って、おいおいと泣き出した。「宿題やってない」という理由だそうだ(翌日は日曜だから差し支えなかったのだがw)。

その翌日の法事にまた来たいと言ってきた。私はグーグル翻訳を使って、昨日の話をした。

「法事に来たいと言ったのは君だろう? 自分で選んでおいて、あとで泣くのはフェアじゃない。自分の選択には、自分で責任を取りなさい。わかるかい?」

「泣くなら、来ることは許さない。どう?」と訊ねると、「泣きません」と答えたので、同行を認めた。

また別の日の法事では、一番前に座ったはいいが、隣の子供とじゃれてふざけていたので、「出て行きなさい」と一喝。このあたりは厳しいお坊さん。

後で「なぜ追い出されたかわかるかい?」と訊ねると、ちゃんと理由を説明できたので善しとした。

ノブはバンテジの言うことは素直に聞く。今だからこそ伝えられる(伝えねばならぬ)こともあると、私も知っている。

将来出家するのではと思うくらいに、バンテジを通して仏教を吸収しているが、聡明な子だから、やがて坊さんであることより、父親のように人々の中で人々のために生きることを選ぶことになるだろう。

さながらゴータマの幼少期のように憂愁を抱えて見えるノブに、グーグル翻訳である日メッセージ――「君は強く生きて行かないとね」。

するとノブも僕も伝えたいと、スマホにつぶやく。「こんどはメトロ(電車)買ってきて」。はは、わかったよ(笑)。


1歳のノブと

ノブの誕生日に村人がくれたマグカップ(隣は日本からのおみやげ)

ずっと見守っているからね



2024年2月


あの国、この国(インドと日本の違い)


4年ぶりにインドに来て、あらためて感じた日本との違い。今回は、かつて以上に違いがくっきり見えた気もする。

まずは空気。遠方まで白く霞んでいる。排ガスと石炭発電と各家庭で燃やすゴミの煙と。焼き畑はこの地では少ないが、ゴミは日夜至るところで燃やしている。ポリもプラも可燃も不燃も関係なし。ダイオキシンや有害物質という概念さえ、この地には存在しない。

全インド数億の世帯が、日夜勝手にゴミを燃やすのである。もし日本で4800万世帯が野放図にゴミを燃やしたら、明らかに空は白く濁るだろう。その数十倍のスケールで煤煙を上げ続けているのだ。喉がさっそくいがらっぽくなった(可能なら酸素ボンベを持参したい気分)。


ムンバイの午後の空 このスモッグの底で暮らさねばならない‥‥

村ではゴミ収集車が回るようになった
2年前からという 画期的 いつか焼却場を作ってもらいたい


もうひとつの違いは食事。インドに来て、さすがに消化器だけは老いを感じなくはなかった。すべての食事が重い。消化に時間がかかりすぎる。獲物を丸のみした蛇さながらの心境になる。かつては、多少はおいしいと感じたものだが。

理由は、油と砂糖だ。いずれも極端なのだ。日々の献立も、ノンベジの家は肉だけ、ベジの家は野菜だけ。組み合わせという発想がない。そうした家々に招かれる私は、肉か野菜いずれを黙々と食べるほかない。

さらに重いのは、小麦を練って焼いたチャパティ。小麦を練って丸めて焼いた、一見ジャガイモ風の小麦粉のカタマリみたいな料理もある。それを夜九時前後の夕食で出される・・・。

過酷な農作業に堪えるための炭水化物フルコース。体を動かす機会がほぼない私の場合は、体内で糖質と化し、血管を傷つけまくるであろう。 この地で糖尿病がきわめて多い理由は明らかだ。砂糖と油の摂りすぎ。だが改善という発想はほぼない様子。

インドに来て5歳くらい老化した気がする。今回強く感じたのは、空気と食事――前者がクリーンに、後者がライトになってくれたら、夢のように快適な滞在になるのだが。遠い未来には、そんなインドになっているのだろうか。



インドの食事ラインアップ
 
朝7時過ぎのチャーハンとジャガイモ 
両方、油こってり入ってます・・・

これはランチ 野菜なし 左上にあるのがチャパティ 
この後「お替わり攻め」との攻防開始

 枝豆ご飯をリクエスト(数少ない安心して食べられるメニュー)
左は「揚げ卵」(ゆでるのではなく油で揚げる。しかも辛い)

油こってり焼きそば これも朝食・・・

野菜料理 これも油料理 ご飯とチャパティが両方つく

わりと定番の夕食メニュー 
一番上に見えるのは鶏肉料理(油)で、左が揚げ物

グーグル翻訳のおかげで「お粥」を説明することに成功 左は炒り卵(油少なめ)
月面着陸の成功と同じくらいの偉業です・・(涙)




2024年2月

十六年目の学校

この地に学校を建ててから、十六年目。地道に続けてきた。着実に育ってきた。

私が日本から持ってくるのはお金。学校を日頃支えているのは、現地の仲間たち。

校長、教頭、中心スタッフは、創立以来の付き合いだ。残念ながら、先生たちは入れ替わることが多い。コロナの3年で、以前の先生たちは一人もいなくなってしまった。結婚して退職するケースも多い。

 

独立記念日(1月26日)は全生徒で村を行進
牛さんも見守ります 

2月は学校創立記念祭。2日かけて、子供たちがダンスやドラマを発表する。学校になじめなかった子が、このイベントをきっかけに元気を取り戻すことも多い。

ダンスが上手な子が真ん中で、その子にあわせて周囲の子が踊って見せる。テキトーに見えなくもないが、みんな楽しくやっているからなんの問題もないw。

村人や近郊の町の大人たちまで見物に来る。出店も出る。鼓膜が、いや全身が文字どおり震えるほどの大音量で音楽を鳴らし、子供たちが壇上で踊ったり芝居したり。

 


ちなみにインドでは、ほぼ毎日のように大音量の音楽が、どこからか響いてくる。今年はラマ生誕祭、我らの学校以外の学校行事、結婚式。

最近2日にわたって村で挙行された結婚式では、最新型の音響機器を借りて、夜通し音楽を鳴らし続けた。結婚式で音楽を鳴らすというより、音楽を鳴らしたくて結婚するというくらいに、インド人は音楽好き。
 
村のど真ん中で開かれた結婚式
 
インドではこれが日常なので、みんな平気。私も慣れてしまった。音楽がない静かな日には、「どうした?」とふと気にかかるくらいになった(笑)。日本なら即クレームに乗り込んでくるかもしれない。

最近村を回るようになったゴミ収集車さえ、大音量で歌いながら走るのだ。「みんな、ぼくにゴミを捨てよう♪」みたいな歌詞らしい(楽しいかも)。考えてみれば、この歌好き・音楽愛もまた、インド人の自己肯定感を育てているのかもしれない。
 

公営焼却場に集約すれば大気汚染も軽減できるような気がします

 

2日にわたる熱く激しい記念祭が終了。最後にメッセージ。「燃え尽きましたか?(アグ・ラガド?)」と、覚えたての現地語で聞くと、みんな笑う。「来年は私もダンスに参加します」と、子供たちをまねて踊って見せる。もう十六年経つ恒例行事だから、私も村人たちも慣れたもの。

打ち上げの食事は、村の婦人たちが用意して、大人たちが奉仕する。地域行事は手伝うものという良識がまだ多数の人々の中にあるから、自然に進む。



夜に入っても食事会は続く 
調理はいつもの村の婦人たち 敬服します




2024年2月