興道の里(インド支部?)から:
一人の子供の誕生日に、家族・近所・友だちがこれだけ集まってくる。当日は村の青年たちがボランティアで風船の飾りつけをやってくれました。
昔の日本の農村にも、こういう共同体はあったのだろうと思います。集会所に集まっていろんな行事をやる(今もあるでしょうが)。
数が多いから、夜まで野原や誰かの家で遊んでいます。かわいい笑い声(ときに泣き声)が一体に響き渡るけれど、顔をしかめる大人は一人もいません(当たり前の話だけれど、日本じゃ当たり前にならなくなっている)。
日本(特に東京)にいると、大人たちは電車の中ではスマホを眺めて、互いに口も聞かず、子供が大声を挙げようものなら、違う生き物を見るかの表情になる人もいる。そんな他人に気兼ねして「すみません」と親が言わねばならないような社会になってきた気がします。
ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。
なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳くらい)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。
個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)と母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。
赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。
核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供がいなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。
子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。
人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。
死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。
子供たちがいるから、人と社会は、虚無の闇に呑まれず、なんとか未来への希望を感じて生きていける。
その子供たちが生まれなくなったら・・・途端に虚無の闇に吞まれ始める。
もともと生命というのは、そういうものなのに、人間は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えることより奪うことをことを、愛することより傷つけることを選んでしまう。
愚痴に不満、過剰な萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。
そんなことをしていても、どうせみんなあっという間に死ぬのに。
それでもなお人を傷つけ、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。
まるで銃弾飛び交う殺伐・暗澹とした、この映画の世界のよう。
疑いや嫉妬や中傷に汚染された社会の只中にいる心には、希望は見えない。
希望というのは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯る。たとえば、この村の日常のような。
インドの小さな村と日本という老いた国と。まるで違う二つの世界を見ている気分になってくる。
あの国の人たちが、未来が育つという当たり前の輝きを思い出せる時代がくるのだろうかと、ふと思う。
全編どんよりと暗い(イギリスらしい)映画なのでお付き合いできる人はどうぞ
(○○○○primeで見られるそうな)
2025年2月