2013年 インド帰郷8 仏教を越えて 


2013年12月30日

午後6時からマハーボディ寺院で3回目のディスコース(法話)。

原始仏典(ティピタカと呼ばれる)の中にも、ブッダオリジナルの教えに近い部分と、後期の付加・創作があるという話をした。どう選別するか。いくつかの視点を紹介した。

質問を募ると、仏教心理学(アビダンマ)の博士号を持ち、ふだん受講生たちに講義をしている教授がたずねてきた。

「あなたの教えによれば、原始仏典はいくつかのオリジナルに近い仏典のみに限られ、さらに八正道とか四聖諦とかごくごく限られた教えだけになってしまう」と不服そう。

「(「限られるとは言っていません)ではあなたに聞きますが、あなたは八正道や四聖諦というものをこれまで一度でも完全に理解し、体得したことがありますか?」

沈黙。


教授「……ブッダは再生Rebirthをはっきり語っています」

「あなたの言うブッダとは、誰のことですか? ゴータマ・ブッダのこと? あるいは、それ以外のテーラワーダ仏教が擁する物語上の27人のブッダ?」


(※テーラワーダ仏教では、ブッダ・ゴータマ以前に27人の覚者がいたとされる。いわゆる28佛思想。またカッサパ、サーリプッタ、モッガラーナもブッダ・ゴータマに並ぶテーラワーダ仏教の開祖とされている。下位カースト出身のブッダ・ゴータマの権威を相対化しようというバラモン・カースト長老の発想だと個人的には認識している。ちなみに学界でゴータマ・ブッダが実在したことが認められたのは19世紀。それ以外は、じつはたしかな根拠がない。)


「再生 Rebirth をどう定義していますか? 生まれ変わりのこと? それとも求めてやまない心Craving が生み出す、この日常の中での“求める心の繰り返し”のこと? 厳密な定義が必要です」


教授「……十二縁起論はテーラワーダ仏教の根幹です。あなたの立場だと仏教を壊してしまうことになります」

「ダンマ(真理Dhamma)は壊せませんよ。あなたは十二縁起論を自身で確かめたことがありますか? あの順番通りに現象が生じると確かめましたか?」


他の生徒が質問してくる。

「私は生まれ変わりRebirthを信じません。私は正しいですか?」

「あなたが正しいかどうかを決められるのはあなただけです。私に決めることはできません」

聴講生たちが意を得たりという感じで笑う。みな、ブッダの思考法がわかってきたみたい(笑)。

教授がさらに質問してくる。

「では(かなり憮然)、ある人が盲目で生まれてくるのはなぜなのか!?」

ちなみにテーラワーダ仏教は、“盲目で生まれてくる人は前世のカルマのせい”だと説く。彼の地では、身体障害をもつ人はむしろ蔑みの対象になっている。

「お医者さんのほうが説明できるかも。私が知るわけないじゃない Ask your doctor. I don’t know.」

教室大笑い。

「前世のカルマというのは“確かめようがない”という点で、それ以上に考えるべきではないテーマなのです。検証不能なことを考えること・説くこと自体が、本当はブッダの教えに反するのです」

仏教の歴史を若干紹介する。バラモン教の影響が多分に混じっていること。原始仏典と呼ばれるものには、当時の宗教観とゴータマ・ブッダの思想とが入り混じっていること。選別しなければ、混乱したままになってしまうこと。

そうした事態は人間の幸福には決して役に立たないこと。

「いくらそのような議論を繰り広げても、ひとは、失うことの苦しみを癒すことはできません。あなたは、そうした議論を重ねることで、本当に自分にとって大切なテーマについて答えを見つけられると思いますか?」とストレートにぶつけてみる。

この地の人々のよいところは、お坊さんの話を真剣に聞くこと。みな真面目に聞いている。


「私たちには、もっと切実な何よりも大切な問題があるはずです。

自身の苦しみ・課題・疑問を解決すること。

現実の社会をよい方向へと作っていくこと。

ブッダは、すべての人間に共通し、この一度きりの人生で解決できる方法、なすべきことのみに限定して教えを解いたのです。すごくシンプルで明解」


輪廻転生とか、前世・来世とか、カルマとか、伝統仏教にまぎれこんだ物語を信じるのは自由。

だが、ブッダはそれをそもそもの目的にしていない。

あくまで、心の浄化、現実の満たされなさからの解放こそが目的で、その目的に沿った合理的な方法を説いたのだ。

生徒はみな、この話にうなずくのである(教授以外(笑))。


ある人曰く、インド人は「宗教を手放せない」民族なのだそうだ。彼らは宗教をとても大切にする。

だが、今宵の法話をみてみると、インド人というのは、宗教と同じように合理的思考にもなじむのがすこぶる速いように感じる。予想以上に理解が速い。「仏教の学び方を教えてもらった」とごく自然に納得している様子なのである。

次回再訪したときには、5回のシリーズ講座をこの寺院ですることに。他の僧院でも法話をさせていただくことになった。


仏教というより“合理的思考”を知るべきなのである。合理的思考こそは、宗教を超えて、人間がいつまでも必要とするものだろうから。

また仏教は合理的思考にこそ貢献すべきなのである。合理的思考が第一。仏教は第二。考えるべき順番がちがう。

そういう視点に立ってみるとむしろ、ブッダの教えというのは、案外かぎりなく合理的思考に近い、というか合理的思考そのものということが見えてくる。

その結果、合理的思考に徹すれば、そのままブッダの教えになるのである。


この合理的思考としてのブディズムをこの地でこれから伝え始めたいと思う。どんな議論も歓迎である。

議論を重ねる中で、どうしても否定できない本当の真理(ダンマ)というものが明らかになってくるだろう。


たとえば、めざすべき“正しい方向性”――自身の幸福。現実の改善。

その出発点としての“正しい理解”。慈しみを心の土台にすえること。

そして正しい方向性にたどりつくための“正しい方法”  (瞑想? 医学? 科学? 政治? 目的と場面による)


これらの要素を欠いてはどこにも進めはしない。


これこそが、原始仏典のブッダの言葉の背景にある、最も純粋な思考のフォーマット(=考えを組み立てる際の枠組み・ひながた)なのである。

合理的に(=妄想を排除して) 仏典を読めば、それがわかる。


そういう形で思考を組み立てていく。仏典を読み解き、それぞれの現実に活かす。

これは宗教ではない。正しい思考(考え方)であり、正しい生き方に奉仕してくれるものである。


インドにおいては、宗教も合理的思考も、案外同じように受けいれられるのではないかという印象を持った。やってみる価値はあるだろう。少なくとも、ナグプールでも、このバンガロールでも、理解しようと努める人はたくさんいる。


真実守るべきものが明らかになっていけば、人々の迷いは減っていくだろう。

守るべきものが本当は何なのか、もっとはっきりしてくるはずだ。

それこそが、人々にとっての‘武器’になる。

ブディズムにおける武器とは、人間にとって真に大切なものを守るための智慧である。



今回の旅は、これからの活動の方向性をはっきりさせてくれたような気がする。

人々は真実のダンマ――幸福への知慧――を求めている。

この命は、そのダンマを説くことが仕事なのである。大きな可能性が広がっている。

すべての人は、合理的な(正しい)方法によって、それぞれの幸せに近づいていくべきだ。

それが、私の思いである。慈しみに基づく、現代を生きる出家としての発想。


生徒さんたちと一緒に外へ。雨が降っていた。この旅ではじめてめぐり逢う雨である。

この世界には、もっと慈雨が必要だ。




バンガロールには信仰心と組織力を併せ持った仏教徒たちがいる
寺院を見れば彼らの運営能力がわかる。 

 
講義の後で
妄信ではなく問いを発せる人たちだった
ブッダの教えを理解できる素地がある