2013年インド帰郷9 気づけば正月

2556/2013年1月1日

あけましておめでとうございます――と折り目正しくあいさつできるように、大晦日はどこか情緒あるシチュエーションで迎えたいと思っていたのだが、現実はそうでもなく、

今はバンガロールという南インドの都市にいる。外で爆発音が聞こえる。花火や爆竹というより“爆破!”っちう感じのどでかい音(笑))。

日本の「さあ、いよいよ新しい年を迎えるぞ~」という一斉感がちょっと恋しい(笑)。

私が知るインドは、新年を迎えるという儀式にあまり熱心でないみたい。毎回、いつの間にか年越しちゃってた……みたいな感じ(T T)。


今朝は、とある家庭に招かれて食事をし、そのあと列車に乗って地方の町(ラマナガラという)を訪れ、そこでいく人かの社会活動家と会合。都市にはない根強いカースト差別の弊害をたくさん聞いた。

多くの人が「インドではブディズムが失われてしまった」と嘆く。

仏教にかぎらずひとつの宗教が異民族の多い地で失われるとどうなっちゃうかというと、他の宗教に簡単に乗っ取られてしまうのである。それは特定の集団・人々にとっては、差別・迫害・支配・絶滅の危険に直結する。

このあたりの事情は、国のなかに“異民族”がいない日本とは事情がちがう。この地では、一宗教の衰退は即、集団の存続・個人の生存の危険につながるのである。

宗教が、民族・文化の安全を守る防護壁だとすると、仏教ほど“もろい”防護壁はないかもしれない。

怒らないこと、戦わないこと、瞑想しよう、徳(カルマ)を積もう、この人生が苦しみに満ちていてもきっと来世がある――というような物語はたくさんある。しかも今日びこの地の坊さんたちは、人々が語るには、「ナモータッサ」のお経を誦えるだけで人々と交わらず、教えを説かない。

かくして、今なお、仏教寺院が異教徒に乗っ取られ続けている現実があるらしい。取り返そうにもその力がない、と嘆くのである。ただでさえ仏教徒はマイノリティなのに、今なお足元を掘り崩され続けているのだ。かなり深刻な様子である。

今回意外だったのは、「ダンマ(ブッダの説いた真理)って何?」と不満げに語る人々がインドにこんなにもたくさんいたということ。

ダンマを知らなければ、まとまりようがないし、また教えを守ろうにも守れるはずがないだろう。


バンガロール有数の大寺院マハーボディ・ソサイエティで出会った篤実な在家信者もまた、同じような失望を語っていた。この寺院はバリバリのテーラワーダ仏教の寺なのだが、ひんぱんに開かれる法事で何をするかというと、お経を読んで、古い経典の話をして、僧たちに供養しておしまい。ある男性は、「あれはブディズムではない」とはっきり語っていた。

寺院に熱心に参拝している人から、こういう言葉を聞くとは思わなかった。みな、読経も仏典の話も、ただありがたく拝聴しているのだろうと想っていたから。

この地で見ているのは、私自身がかつて感じていた以上の、仏教への「?(クエスチョン)」なのである。「あれはブディズムではない」なんて、よほど求めているもののイメージがはっきりしていないと出てこない言葉だろうと思う。

だが人々が乗り越えることができないでいるのは、「ではブディズムとは一体何か?」という問いだ。

“ブディズムを生きている”はずの坊さんが答えを示せないのであれば、ブディズムを“学ぶ”側の人々に答えが見つかるはずもない。誰かが、明確な答えを示せないといけないはずなのだ。

「ブディズムとは何か」を明確にしなければいけない時期。でないと、ブディズムもろとも人々の幸福が失われてしまう。

この地の人々がよりどころとすべき確かなもの。ダンマの具体的な中身――。

それを明確にできれば、この地の人々は団結できるだろう。自分たちの生活を守ることができるだろう。たぶんそういうことなのだろうと思う。

今回旅しているうちに、ひとつのプロジェクト、使命のようなものが浮かび上がってきた。

ダンマ・ディスコース(法話)のプログラムを作ること。

一日あるいは数日規模の、ダンマを学ぶ集中講座を作って、この地で発信する。

このプログラムに参加してもらえれば、ダンマの本質――守るべきもの――が見えてくる。そういう内容。

日本でやっていることと内容は重なってくる。ただ、この地でのプログラムは“危機意識”に基づいている。彼らに守るべきものを提供して、それをよりどころにして現実に立ち向かう。

いわば、生き残るためのダンマである。

今回の旅で、かなりの社会活動家とめぐり逢った。場所・人集めは彼らに準備してもらう。私は、次の訪問に向けて、“仏教の本質”を英語バージョンで説き、彼らにとって示唆に富む仏典のエピソードをピックアップして、一冊のテキストを作ろうか。さらには仏教の本質をまとめたリーフレットを作る。その中身について、実際に法話をする――。

インド仏教徒たちは切実な危機意識を持っている。彼らには、“仏教の本質”がきちんと伝わる予感がする。というか、彼らが求めているのは、まさに“仏教の本質”そのものである。明解で、日々のよりどころになるもの。現実をいかに生きるべきかという方針を示してくれるもの。

この苛烈な地に“種”をまかなくてはいけない時なのだ――。

この時代は、本当の仏教(≒人々の幸福に真に効果的な方法)を人々の心に直接訴えなければならない歴史的な時期かもしれない。

“伝道”というのは、こうした目的意識をもってやるものかもしれない。

情熱をもって、人々の心のよりどころになるような、力強く、明白な思想を伝える活動である。


やらねば――(!)


そんなことを(熱―く(笑))考えながら帰ってきたら、もう年が明けていた(年越しの風情が……)。


ともあれ、

みなさん、あけましておめでとう!

今年もまたお会いできますように。

あなたの一年が幸福とともにありますように。

龍瞬より手いっぱいの愛を送ります。


バンガロールの仏教徒は知的水準が高い
英語も話せるし高度な話にも食いついてくる