消えゆく未来と育つ未来


興道の里(インド支部?)から:

ノブの誕生日パーティ(2月9日)は、タブレットで中継したので、2月1日(スマホ中継)よりは画質・音質とも良かったかも?

一人の子供の誕生日に、家族・近所・友だちがこれだけ集まってくる。当日は村の青年たちがボランティアで風船の飾りつけをやってくれました。

昔の日本の農村にも、こういう共同体はあったのだろうと思います。集会所に集まっていろんな行事をやる(今もあるでしょうが)。

幼い子供たちが多い(ほんとにポコポコ(という言い方は不適切かもしれませんが笑)と赤ちゃんが生まれてきます。ペースがすごい)。

数が多いから、夜まで野原や誰かの家で遊んでいます。かわいい笑い声(ときに泣き声)が一体に響き渡るけれど、顔をしかめる大人は一人もいません(当たり前の話だけれど、日本じゃ当たり前にならなくなっている)。

日本(特に東京)にいると、大人たちは電車の中ではスマホを眺めて、互いに口も聞かず、子供が大声を挙げようものなら、違う生き物を見るかの表情になる人もいる。そんな他人に気兼ねして「すみません」と親が言わねばならないような社会になってきた気がします。

ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。

なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳くらい)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。

どの国も内戦・分断やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、なんの希望も見えない日々を過ごしている。

個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)と母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。

赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。

核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供がいなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。

子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。

日本社会は、この映画(原作小説)が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある(すでになっているのかも)。

人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。

死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。

子供たちがいるから、人と社会は、虚無の闇に呑まれず、なんとか未来への希望を感じて生きていける。

その子供たちが生まれなくなったら・・・途端に虚無の闇に吞まれ始める。

もともと生命というのは、そういうものなのに、人間は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えることより奪うことをことを、愛することより傷つけることを選んでしまう。

愚痴に不満、過剰な萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。

そんなことをしていても、どうせみんなあっという間に死ぬのに。

それでもなお人を傷つけ、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。

まるで銃弾飛び交う殺伐・暗澹とした、この映画の世界のよう。

疑いや嫉妬や中傷に汚染された社会の只中にいる心には、希望は見えない。

希望というのは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯る。たとえば、この村の日常のような。

インドの小さな村と日本という老いた国と。まるで違う二つの世界を見ている気分になってくる。

あの国の人たちが、未来が育つという当たり前の輝きを思い出せる時代がくるのだろうかと、ふと思う。


全編どんよりと暗い(イギリスらしい)映画なのでお付き合いできる人はどうぞ
(○○○○primeで見られるそうな)




2025年2月

今年のおみやげ

毎年インド行きの前には、百均と家電量販店に行っておみやげを買いあさる。

自分のためにはとことん出費を渋る(悩みに悩んで最後は買わない選択をしてしまうほどの)貧乏性だが、インドへのおみやげとなると、やたら悩むうえにけっこうな額の買い物をしてしまう。一年に一度だし、今年の子供たちは今年きりだし(すぐ大きくなってしまうし)。

ノブには電車(電池で走る)と飛行機(ライトが着き音が出る)を、一つに絞り切れずに二つ買ってしまった。

ラケシュとシタルには、3Dジグゾーパズルの地球儀(完成させると球体になる)、ブリタの浄水器、フィルターコーヒー(焙煎豆)、充電池セット。

アスカや近所の小さな子用には遊び道具。この点、日本の百均ショップはかなり優秀。ボール、万華鏡、キラキラシール、飛ばして遊ぶやつ(なんと呼べばいいのか)、お風呂遊具、けん玉etc.

買い込んだものをバッグに詰める。私には、あのコロコロ引きずって歩くスーツケース(と呼ぶのか)が性に合わない。背負って運べない量の荷物はそもそも運ぶべきではないという戒律(?)を自分に勝手に課している。そもそもあんなかさばるものを大量生産して、どう処分するんだ、地球の至るところに旅行ケースの山ができてしまうぞと環境への負荷も勝手に懸念してしまう。

だからずっと背負って歩けるサイズのリュック2つで旅行してきた。一つを背負って、ひとつを前に抱えて、サンドイッチ状態で移動する。2つで20キロ行かない。他の乗客の荷物を空港で見て、その巨大さ・重さに仰天する。よく海を飛べるものだと感心してしまう。

今回も2つ背負ってインドに到着。着いたその日から配り始めるのだが、意外だったのはシタルは化粧が嫌いだということ。せっかく買ってきた(といっても百均だが、それでも日本の百均はあなどれないのであるが)ネイルジェルや爪に貼るシールは要らないと言ってきた。 「シンプルに生きたい」のだそうだ。さすがラケシュの妻。 学校の先生たちにあげることに。

コーヒーがラケシュ夫妻のお気に入り。今回はフィルターコーヒーの作り方を伝授。「コーヒーは、豆を挽くところから始まって、淹れ方にも細かい作法があります。宗教みたいなものです」と、半分冗談で半分本当かもしれない俗説を吹き込みながら実演。

ブリタ(浄水器)と充電池セット(パナソニック)も喜んでいた。頭皮マッサージ用の櫛の長いブラシも(百均で売っているお風呂用品)。

 

毎年必死の思いで運んでくるのだが、あっという間になくなってしまう
動くワンちゃんがアスカはお気に入り


あずかってきたお土産も無事渡しました(ありがとうございました)

風呂場には濡らして貼るアルファベットと九九の壁紙



だが私が持ってきた電動歯ブラシは爆笑だった。インドでは、朝起きた時に口磨きパウダー(アーユルヴェーダ)を指先につけて口の中を磨くだけ。食後の歯磨きという習慣はない。食べたまま寝るそうな。それでもラケシュの歯は真っ白。昨年94歳で亡くなった父親も、最後まで歯は丈夫だったとか。

インドでは15年前まで歯医者など誰も知らなかったという。最近、ムンバイなどで歯科医が増え始めた。人々も食後の歯磨きを1日に2,3回するようになった。なんとそれから虫歯を患う人々が急増し始めたのだそうだ。

もともと虫歯菌がいない国らしく、歯磨きの習慣がなかった。歯磨きするようになって虫歯が増えだしたというのは、興味深い。日本でがん検診をやり始めて以降がん患者が増え続けているというのと似た構図があるのかないのか。

ラケシュが、インド人御用達のアーユルヴェーダ歯磨き粉(口磨き粉?)をくれた。試してみよう。



学校にお土産を持って行く。ボールとかバネで飛ばすスクリューとかフラフープとか。

毎年けっこうな量を持ってきているつもりだが、昨年あげたものは全部跡形もなく消えていた。ラケシュによれば、1か月で全部(奪い合っているうちに)壊してしまうのだそうだ。

今回もそれらしいリアクションが。ふさわしくない喩えかもしれないが、難民キャンプに食糧を持ち込んだかのような奪い合いが。譲り合いの精神はゼロ(笑)。

朝8時に職員室からおもちゃを私が運び出して、それを子供たちが奪い合うというのが、毎年この時期に見られる光景である。今年も再び。


われ先にと奪ってゆく
 
 
朝礼までわずか5分でも夢中で遊べることがすごい
(子供の頃は学校の中休みもすごく長く感じたことを思い出す)




2025年1月下旬